大地震(おほなゐ)の国

2011/03/13
更新: 2011/03/13

【大紀元日本3月13日】鎌倉時代の初期、鴨長明(1155~1216)が記した随筆『方丈記』(1212)の中に、次のような恐るべき一節がある。

「また、同じころかとよ。おびただしく大地震(おほなゐ)の振ることはべりき。そのさま、尋常(よのつね)ならず。山は崩れて、河は埋(うづ)み、海は傾(かた)ぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土裂けて、水涌きいで、巌(いはほ)割れて、谷に転(まろ)びいる」

口語訳。「(その飢饉があったのと)同じ頃だったろうか。おびただしく大地が振るえる大地震があった。その様子は尋常ではない。山は崩れて、河は埋まり、海は傾いたように水があふれて、陸地を水浸しにした。大地は裂けて、水が湧き出し、岩が割れて谷に転げ落ちた」

元暦2年(1185)の7月9日、京都を中心に起きた大地震を回想しての描写である。

引用部分の後にも、逃げ惑う人々の姿も含めて、極めてリアルな地震の描写が続くとともに、本震の後の余震が非常に多く、3カ月ほど経ってからようやく収まったことなどが、800年前の日本人によって詳細に記されている貴重な資料である。

前置きのつもりで古典を引用したのは、「海は傾ぶきて、陸地をひたせり」など、その様相があまりに今回の惨状を言い当てているようで、不気味にさえ思えたからだ。

3・11、国難至れり

3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード8・8の大地震が起きた。この地震は、菅首相の言葉によれば「想定される上限をはるかに超えた(規模の)」巨大津波を引き起こし、美しいリアス式海岸の三陸地方を始めとする東北地方の東海岸に、文字通り怒涛となって襲いかかった。

巨大な海水の「山脈」が陸地に迫り、入り江の中でさらに勢いを増しながら、漁船も、家屋も、自動車も全て押し流していく。圧倒的な水の力に破壊されたかと思えば、次にはそこから火が立ち上って焼き尽くす。消火はおろか、救助の手も及ばない。テレビの画面に続々と映し出される光景は、目を背けたくなるほど凄惨を極めた。

1995年1月17日未明に起きた阪神淡路大震災において、6千人を超える犠牲者の多くは就寝中の家屋倒壊による圧死によるものであった。

また、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災は、昼の炊事時に出火した火災によって14万人もの焼死者や行方不明者を出した。

そして今回、現時点では大津波がその主な内容と推測される巨大地震災害が起こった。

しかも、その被害範囲は極めて広い。それゆえに、3月13日の未明である現在、被害の全貌はおろか、概要さえも全く明らかになっていないのである。

「優しさ」をつなごう

阪神淡路大震災の際、こんな悔やまれることがあった。地震の後の生活の中での「死」である。例えば、地震では生き残って仮設住宅へ入居したものの、そこで孤独死するというような極めて残念な事例が数多く存在したのである。

その原因は様々であるが、悲しみや絶望感などの精神的なショックが誘因であったり、暑気や寒気による体調不良、または病状悪化に周囲の人が気づかなかったためなどが考えられる。いずれにしても、地震そのものではなく、地震後に直面する現実に押しつぶされた犠牲者ということになるだろう。

地震発生後、初めの数日間は、まだ体力があり気も張っている。

しかし、問題はその後である。家族を亡くし、家を失い、生活のめども立たない状態で、気が遠くなるほどの泥と瓦礫の山を目の前にした時、心の支えを持たない被災者はどうなるか。恐るべきほどの悲しみや絶望感という第2波の巨大地震が、まさに疲労困憊した人間の精神を直撃し、時に死さえ招くのである。

その防止策はある。私たちがもつ「優しさ」をつなぐことだ。

あくまでも仮定の話であるが、治安の不安定な途上国で大災害が起きれば、その直後から暴動や略奪、救援物資の奪い合いなどの、災害よりもおぞましい事態が生じるだろう。

人間が極限状態の中で、悪の誘惑に負けず、善であり続けることは容易でない。

しかし、苦しい時だからこそ助け合い、いたわり合う「優しさ」の文化を、私たちは持っているのだ。阪神淡路大震災の時も、互いに助け合いながら、忍耐強く社会秩序を守る日本人の姿に、世界が驚嘆したのである。

まして国難と言っても過言ではない今回の地震災害においては、被災地の住民のみならず、日本人全てが被災者であるとも言える。

私たちは、互いに涙を流しながらも、一人ひとり「優しさ」の手をつなごう。

それは、この地震国に生きる日本人が、悲しみを乗り越えて歴史を刻んできた民族の誇りでもある。今回もそれができる国民であると信じている。

(牧)