歴史に詳しい人なら誰でも、韓信が「前漢の三英雄」の一人であり、「不滅の軍人」としても知られていたことをご存じでしょう。韓信なくして大漢の天下はなかったと言っても過言ではありません。では、わずか数年の短い軍歴の中で、何千年もの間、人々に語り継がれるような数々の有名な戦場をくぐりぬけた韓信は、いったいどんな奇跡を起こしてきたのでしょうか?
項羽と韓信、一人は強力で覇気横暴な王者であり、もう一人は敵の動きを予測し、神のように兵士を使う仙人です。秦王朝の滅亡後の数年間、それは楚と漢の皇帝の間の戦いというよりも、項羽と韓信の間の華麗な決闘でした。この垓下の覇権争いは、ついにこの時代の歴史に力強い終焉をもたらしました。
楚漢が覇権を争う前、項羽は40万の兵を持っているのに対して、劉邦はわずか3万の兵と馬で項羽の領地に赴きました。経歴的には、項羽は楚国の貴族であり、代々将軍として名声が高かったのに対し、劉邦はただの小さな亭主にすぎません。このような強力な敵を前に劉邦は、どのようにして弱者が強者を打ち破り、天下を統一することができたのでしょうか?
秦の末期、「楚は三軒しかいなくても、秦を亡ぼし、楚を勝利に導く」という諺が流行っていました。紀元前209年、陳勝は反乱を起こし、「張楚」政権を樹立し、世の中の英雄を集結させ、項羽と劉邦も楚人の子孫として立ち上がりました。比較的平和な淮陰県で、韓信は彼の宝剣のように鞘から抜くのに最適な時期を待っていました。
劉邦を亡き者とし、禍根を断つ絶好の機会をみすみす逃した項羽に范増は「ああ、豎子(青二才)はともに謀るに足らない。項羽の天下を奪う者はかならず沛公(劉邦)だ。一族はそのうち彼の虜になろう!」と嘆きました。
2022/02/01
秦軍の主力を打ち破った項羽は「諸侯上将軍」となりましたが、秦の首都である咸陽を最初に奪ったのは項羽ではなく、劉邦でした。
2022/01/31
死物狂いとなった楚軍は、稲妻のようなスピードで秦軍を取り囲み、全軍が勇猛で多勢の敵に当たりました。項羽は兵士の先頭に立って奮戦し、楚軍は戦えば戦うほど勇気が出てきて、秦軍を恐怖に陥れて、九戦九勝しました
2022/01/23
秦の末期、項羽は激戦の末、ようやく劉邦の家臣・彭越将軍に勝ち、「外黄城(現河南省)」を攻め落としました。気性の荒い項羽は、自分に反抗した城の住民への戒めとして、15歳以上の男性を拘束し、全員生き埋めにしようと準備を進めていました。
2021/04/24
韓信(紀元前約231-196年)は中国史で最も傑出した軍事家に数えられます。劉邦が400年続いた漢朝の基礎を築く際、補佐役を務めたことで知られていますが、韓信の少年時代の逸話が、忍耐強さへの教訓として最もよく物語られています。
2019/01/05
「十面埋伏」は琵琶曲であり、中国の十大名曲の一つです。この曲は紀元前202年に起こった楚(項羽)と漢(劉邦)の戦いをテーマとしています。「十面埋伏」と「春江花月夜」は琵琶曲の中でも「一文一武」の代表曲とも呼ばれています。
2018/10/08