(訳者注)本項は高智晟 弁護士の妻・耿和氏の口述をもとに書かれているため、前項までの第一人称体である「私(高弁護士)」とは異なった文体になっています。
2023/09/05
私たち7人の子どものすべてが、母の精神世界にとっての中心だった。たとえ今わの際になっても、わが子と孫たちの名を繰り返し呼び続けた。息を引き取るまで、何度も何度も数え切れないほ
2023/09/04
【大紀元日本1月13日】貧しい人々を支えた母の偉業のうち、最も忘れ難く、いまだ記憶に新しいのは、そのうちの2つである。1つは、寒風が突き刺すような真冬の夜のことだ。その夜、物乞いになった数人の貧しい
2023/09/03
【大紀元日本1月5日】母は、有徳の人であった。この母の功徳ぶりは、私の認識やこの手中の筆が決めるものではないが、いずれにせよ、母が徳の力で積み上げてきた数々の逸話を、この筆で書き尽くすことは到底でき
2023/09/02
【大紀元日本12月26日】中国北西部、黄土高原の厳しい冬は、その年初めての強い北風とともに、規則正しくやって来る。他の家の子たちが家にこもっている頃、我が家の子たちは野山をめぐっては焚き木を拾った。
2023/09/01
母は、先々まで見通すことのできる人だった。このおかげで、今日の私たちが存在する、あらゆる基礎が築けた。母は、長男と姉以外、すべての子を学校に行かせることに決めた。
2023/08/31
1975年の6月22日、周囲の助けのもと、私の父はようやく40元相当の棺を手に入れた。大きな体を丸めて41年生きた父は、亡くなってもなお体を折り曲げ、つけで買った棺に横たわっている。何はともあれ、こうして父の埋葬問題は一件落着した。
2023/08/30
2005年3月6日午後4時24分、私の母は、限りなく愛したこの世を去って行った。我々兄弟姉妹7人にとって、これは母のいる時代の終わりであり、母のいない時代の始まりでもあった。
2023/08/29
私は、母が私を生み育ててくれた所へと戻って来た。この洞窟、我が家、そして山道、目にするものすべてが私を追憶へといざなう。
2023/08/28
確かあれは、夏の日の昼ごろだった。私は母について水を汲みに行った。私たちの村の水汲み場は崖の中ほどにある。
2023/08/27
「いつかは腹いっぱい、飯を食いたい」。これこそ、父が果たせなかった悲願であった。
2023/08/26
旧暦の12月27日、泣きくれて目の腫れも引かない母は、私を連れて出かけた。我が家のだれ一人として、母の行き先を聞こうとはしない。
2023/08/25
春節、それは農村地区で特別な意義があり、中国の農村で最大の祭りでもある。それはまた、農村の住民にとって最も大切な祭りでもあるのだ。
2023/08/24
弁護士試験は、極めて苦しいものだった。中国には、「大禹は治水という大事業を成し遂げるまで、決して家に帰らなかった」という言い伝えがある。
2023/08/23
我が家の生活も、96年を境に改善の兆しが見え始めた。私は94年に独学で専門学校を卒業し、95年に弁護士資格を取得した。そして96年には弁護士事務所を開いた。
2023/08/22
それにしても、これはとんでもない道中だった。延安から綏徳(すいとく)まで少なくとも270キロあるが、その日の夜には着いた。
2023/08/21
私は家路に着いた。その初日、黄陵まで一気に40キロも歩いた。何も口にしていなかったので、ひどくお腹が空いていた。ある食堂を通りがかると、中では油条(細長い揚げパン)を揚げている。
2023/08/20