7月1日、中国共産党(中共)が創立してから104年となった。これに際し、ジョージ・グラス駐日米国大使は自身のSNSで次のように投稿した。
「入念に演出された祝典でも、中国共産党の残虐行為と権威主義の歴史を覆い隠すことはできない。1921年の創立以来、共産党は多くの自国民を飢餓にさらし、検閲や拘束で苦しめてきた。国民に対する迫害や残虐行為にも手を染めている。他国に対しても、脅迫、攻撃、嫌がらせ、詐欺、破壊工作を行ってきた。104年にわたる党の弾圧は、風船やケーキで祝うようなものではないだろう」
中国国営の新華社通信は6月30日、2024年末時点での中国共産党の党員数が1億270万人に達したと報じた。前年より108万人増加し、初めて1億人を突破した。結党当初はわずか50人足らずだった同党が、中華民国から政権を奪取し、1億人規模へと拡大する過程では、数多くの犠牲が伴ってきた。
以下に、中国共産党の歴史における主な政治運動と、その背後にある弾圧の実態を振り返る。
中国共産党による主な政治弾圧の歴史
三反五反運動(1951年〜1953年)
「三反」汚職・浪費・官僚主義という3つの害と「五反」賄賂・脱税・横領・詐欺・国家財産の盗用の根絶という5つの害を掲げた。
当初は党・政府・軍内部の浄化を目的としていたが、やがて資本家や工商業者にも対象が拡大された。厳しい尋問や拷問、内部告発が横行し、自殺者は推定20万人に上るとされる。経済活動にも深刻な影響を与えた。
反右派闘争(1957年)
毛沢東は百花斉放・百家争鳴運動で知識人に自由な発言を促した。しかしその直後、中国共産党は方針を転換。発言者を「右派」として粛清した。
約55万人が右派とされ、強制労働、投獄、社会的抹殺などの処罰を受け、数万人が死亡したとされている。これにより知識人層は壊滅的打撃を受け、言論の自由は完全に封殺された。
大躍進政策(1958年〜1961年)
毛沢東は農業・工業の急成長を目指し大躍進政策を主導した。全国の農村で集団化や非科学的な増産運動が強行され、反対者への弾圧も行われが、政策は大失敗に終わり、全国的な大飢饉と社会混乱を招いた。その結果、餓死者は1600万人〜4500万人、最大で7000万人超に上るとの推計もある。
文化大革命(1966年〜1976年)
大躍進政策で大失敗をした毛沢東は権力を失い、劉少奇が国家主席を継いだが、その後「資本主義の道を歩む実権派」の打倒を掲げて文化大革命を起こした。
学生を中心に結成された紅衛兵(こうえいへい)は、毛沢東の思想に忠誠を誓い、知識人や党幹部、教師、宗教関係者などに対する糾弾や暴行を繰り返した。
紅衛兵は国家の後ろ盾を得て行動し、文化財の破壊や「旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣(四旧)」の排除を推進。社会全体が混乱と恐怖に覆われ、劉少奇を含む多くの指導者が失脚・死亡した。
死者数は数十万人から2千万人以上とされている。
天安門事件(1989年)
1989年6月4日、北京・天安門広場で民主化を求めて集まった学生や市民に対し、中国人民解放軍が武力弾圧を行った。
発端は胡耀邦の死去に伴う追悼集会で、次第に言論の自由や政治改革を求める全国的運動へと発展。政府は5月20日に戒厳令を発令し、6月3日夜から4日未明にかけて、戦車や銃器を用いてデモ隊の排除を強行した。
死者数は中国共産党政府の公式発表で319人とされているが、イギリス政府の外交文書では「少なくとも1万人以上」との報告もある。事件後は、抗議者やその支援者への大規模な逮捕、そして言論統制が徹底された。
大紀元の『九評共産党(共産党についての九つの論評)』では、これらの弾圧の歴史が「党の統治維持のために繰り返されてきた危機対応の一環」と捉えている。
「このすべては、みな中共がその地位を強化し、その統治を維持する過程で、絶えず、経済危機(政権を打ち立ててから、物価が高騰し、文革後の経済が崩壊する寸前に)、政治危機(一部分の人たちが党に服従せず、一部分の人たちが党と政治権利を奪い合う)、信仰危機(旧ソ連の解体及び東欧激変事件、法輪功事件)を解決するうえで起った、必然的な反応である」
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。