未だ破防法の調査対象団体 日本共産党の結党から現在まで

2024/02/14
更新: 2024/02/14

世界で初の共産党政権であるソ連が登場してから100年余り、第二次世界大戦前後に世界中の国々に誕生した多くの共産党、社会主義の政党は、1989年のベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの統一、ソ連が崩壊する中で、党勢を弱め、ほとんど消滅していった。

崩壊への道を辿った共産・社会主義国は、ソ連を筆頭として、経済が停滞し、政治が腐敗していた。これらの90年代の共産、社会体制の崩壊は、彼らが活動当初、叫んでいた「貧富の差をなくす」という主張が、単なるプロパガンダであった事実を如実に示していた。

日本共産党は結党から100年を経て、1990年には衆議院議員29人を擁したが、現在は10人と議員数を落としている。日本共産党について、日本政府は未だに破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体という見方を変えていない。

結党から戦前期

日本共産党が結党したのは1922年(大正11)7月15日、野坂参三、徳田球一らが幹部となり発足した。当時は治安維持法が共産主義活動を禁じていたため非合法の党として発足した。治安維持法は、国家の体制を変革したり、私有財産制の否認を目的としたりする活動を非合法とし、そうした活動に関与するものを厳しく取り締まっていた。

共産主義は「貧富の差をなくす」事を実現させると標榜し、私有財産を奪っている。しかし、その過程でおびただしい人間の命が奪われる。『共産主義黒書』(ステファヌ・クルトワ他 著)によると、共産党政権下のソ連では2千万人、中国では6500万人、北朝鮮やカンボジアでは200万人など合計で1億人もの死者がでている。

同年11月にはコミンテルン(共産主義インターナショナル)に加盟した日本共産党は「コミンテルン日本支部 」となった。コミンテルンとは、当時、世界各国の共産主義運動を主導していた国際機関で、日本共産党をはじめとして、中国共産党、ドイツ共産党、多くの国々の共産党が参加し、共産主義革命の国際的な連携を図っていた。

コミンテルンは1928年(昭和3年)第6回大会を開催した際、「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」という行動指針を発表、その中で「敗戦革命」について語られている。

「共産主義者の帝国主義戦争反対闘争は、一般の平和主義者の戦争反対運動とその根底を異にしている。われわれはこの反戦闘争をブルジョワ支配階級覆滅を目的とした階級戦と不可分のものとしなければならない。けだしブルジョアの支配が存続する限り帝国主義戦争は避け難いからである。帝国主義戦争が勃発した場合に於ける共産主義者の綱領は

(1)自国政府の敗北を助成すること

(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することである(『戦争と共産主義』(三田村武夫著))

となっており、戦争に反対するどころか、戦争を利用して権力奪取を目論んでいたことが明らかになっている。

三田村武夫は「共産主義者は『我々は断固戦争に反対した』『軍閥戦争に反対したのは共産党だけだ』といい、共産党以外のものが全部戦争の協力者であったような言い方をしているがこのロジックはおかしい」と断じている。

神奈川県警察史 中巻によると1930年(昭和5年)頃は田中清玄らの指導の下、全国の共産党員に武装を命じ、各地に赤色(共産主義)テロが頻発し、多くの警官が傷害を受け、殉職した。

同年の川崎稲毛神社のメーデーには18、19人の共産主義者らが乱入、彼らの手には竹槍、仕込杖、大型ヤスリ、短刀、ピストル等が握られ、多くの警官が銃撃を受けたり、竹槍で刺されたりして負傷するなど、会場は修羅場と化したという。

その後も治安維持法の下で、多くの共産党員が拘束された。

敗戦後

日本が1945年(昭和20年)大東亜戦争に敗北し、無条件降伏すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本の体制の解体を始めた。当初、共産主義者に対して寛容だったGHQは治安維持法、特別高等警察を廃止した。徳田球一など共産党主要幹部は刑務所から釈放され、1946年(昭和21年)に野坂参三が中国から帰国し、同年開催された第5回党大会では「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざす「平和革命論」の方針を決めた。

日本共産党は敗戦直後の国民生活の窮乏と社会不安を背景に党勢を大いに伸ばし、1949年(昭和24年)1月の衆院選では35議席を獲得し、10数万人の党員を擁するようになった。

しかし1950年1月「平和革命論」はスターリンによりコミンテルンの後進として発足したコミンフォルムから「帝国主義を美化するもの」と批判された。

6月には朝鮮戦争が勃発し、日本共産党の主流派だった野坂、徳田らが主導して第五回全国協議会(五全協)において「51年綱領」を採択し、そこでは「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」と武装闘争方針を前面に出した。

元日本共産党のトップ、中央委員会議長の不破哲三氏は後に講演で、この時の様子を「徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった『北京機関』を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです」と述べている。

その後「51年綱領」について日本共産党は、1955年(昭和30年)7月の第6回全国協議会で、昭和20年代後半に行った武装闘争を「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」(革命情勢がないのに武装蜂起した)と自己批判し、1958年(昭和33年)7月の第7回党大会で「51年綱領」を「一つの重要な歴史的な役割を果たした」と評価した上で廃止した。

1961年(昭和36年)7月に開催された第8回党大会では民主主義革命から引き続き社会主義革命に至るという「二段階革命」方式や、広範な民主勢力との連携を目指す戦略として「統一戦線」を規定した現綱領を採択した。また革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」とするいわゆる「敵の出方」論による暴力革命の方針が示された。

年月が経ち、日本共産党は、2004年(平成16年)43年ぶり、5回目となる綱領改定を行い、マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更し、ソフトイメージを強調したものとなった。

その一方で、二段階革命論や、日本共産党が社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人と協力するとしている統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなかった。不破議長も改定案の提案を示した際「綱領の基本路線は、42年間の政治的実践によって試されずみ」として、路線の正しさを強調した。

このことについて、警視庁はウェブサイトで「現綱領が討議され採択された第7回党大会(1958年)から第8回党大会(1961年)までの間に、党中央を代表して報告された「敵の出方」論に立つ同党の革命方針に変更がないことを示すものであり、警察としては、引き続き日本共産党の動向に重大な関心を払っているとし、公安調査庁も共産党が破防法に基づく調査対象団体である見解を崩していない。

2024年、林芳正官房長官は1月18日の記者会見で、歴代最長の23年にわたって在任してきた志位和夫委員長が田村智子議員に交代する見通しの共産党についても「公安調査庁は共産党を破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体としている」と述べた。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
大道修
社会からライフ記事まで幅広く扱っています。