昨年12月中旬、中国のSNSで「ある動画」が話題になった。動画は37秒ほどの、ごく短いものである。
結論から先に言えば、カメラ回しの流れからしても、これは偶然出くわした現場を撮ったノンフィクションではなく、きちんと演者を配置し、意図して「つくられた動画」であろう。
作者が誰であるかも分からない。ただし、官製動画にありがちな「説教臭さ」は感じられないので、民間からのものと思われる。悪意があるものではなさそうなので、フェイクと呼ぶ必要はなく、ごく短い映画と考えれば良いだろう。
作り話ではあろうが、それでも動画が示す「何か」が今の中国人の心の琴線に触れ、広く受け入れられた。その概要は、以下の通りである。
昨年12月13日、江西省南昌市を走る地下鉄でのこと。その車内で「優しい若者」が見せた思いがけない行為が、ネットで人気を呼んだ。
その地下鉄の車内は乗客が少なく、比較的すいているようだった。そのなかに、なんと座席を占拠して、ごろりと横になっている中年女性の姿があった。
かといって、泥酔して寝ているわけではない。コロナの急病で倒れているのでもなく、とにかく非常識な態度で携帯電話をいじりながら、車内の座席に寝っ転がっているのだ。
他の乗客はみな、この女性を見て「不快な表情」を浮かべている。それをきちんとカメラで拾うところに撮影の意図が感じられるが、その点は追求せず、ストーリーだけに注目しておく。
そのとき、座席に寝転ぶ女性の向かい側に座っていた若い男性が、何か名案を思いついたようだ。
男性は、自身が来ていたダウンジャケットを脱いで女性のもとへ寄り、こう語りかけた。「おばさん、ここで寝たら寒いんじゃないの?(この服を)かけてあげるね」。
そうして、自分のダウンジャケットを、まるで「お布団」のように優しくかけてあげようとする若い男性。(地下鉄の車内に、こんな人物がいるわけがないが、いたことにしないと話が成立しない)
若い男性の思いがけない親切を受けて、座席を占拠して寝ていた「おばさん(大妈)」は驚いて飛び起きた。そのとき言ったセリフが、画面の字幕に浮かぶ。
「你可真是天打雷劈的好人(あなたは、とんでもなく善い人ね)」
「若者が、実に賢明な方法で、地下鉄での女性の野蛮な行為(不文明行為)を制止した」として、この動画は広く拡散され、大人気になった。この若い男性は、ネット上で一躍有名になり「南昌地下鉄の布団掛けマン」と呼ばれるようになったそうだ。
さらにこの若い男性は、この後「地下鉄に乗ったら、おばさんが他の乗客に良くない影響を与えているのを見た。だから僕は、このような方法で彼女に注意したかっただけです。何かトラブルに出くわしたら(相手とケンカするのではなく)友好的な方法で問題を解決するのもいいですよ」と話した、という。
繰り返すが、これは「おとぎ話」であり、ファンタジーである。そのことは知りつつも、中国のネット民はこの37秒のストーリーに不思議なほど共感し、引き付けられた。
それは、なぜか。
その理由を消去法で考える限り、中国人のなかの多くの人が「本当は、私も優しい人になりたいんだ」と、心の底では思っているからではないか。
中国社会は今、恐ろしいほど荒れ果てている。そうした環境のなかにいれば、どうしても人の心はすさみ、他人に対して攻撃的になってしまう。
だからこそ「優しい人になりたい」「善良な心を、取り戻したい」という、灼熱の砂漠で水を渇望するような心理が、今の中国人の内面に確実に存在するのである。
この動画が注目され、広く人気を集めた理由は、その1点に帰結すると言ってよいだろう。
(2023年12月13日、江西省南昌市の地下鉄内であった(とされる)「親切な若者」の物語)
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