イスラエルはガザ地区に対する地上攻撃を開始する可能性が常に存在する。事態が進行すれば、これは過去百年間でアラブ人とイスラエル人との6度目の大戦となる可能性が考えられる。
イスラエル民族とアラブ民族との間の対立は、既に百年を超える期間にわたり存在している。これは宗教的なイデオロギーだけでなく、地域の政治的な対立も内包している。過去の百年で、5度の大戦が起きている。
1. 第一次中東戦争:イスラエル独立戦争(1948年)
第一次世界大戦中、中東を支配していたオスマン帝国は敗北した。その後、国際連盟は英国にパレスチナの一時統治を任せたが、英国の統治下で、ユダヤ人とパレスチナ人の間の民族主義運動が高まり、紛争が絶えなかった。
1947年11月29日、国連総会は決議181(パレスティナ分割決議)を採択し、パレスチナを2つの国、ユダヤ国とアラブ国に分割して建国するという決定を下した。
この決議はユダヤ人からは賛同を受けたが、パレスチナ人は国連の決議に反対し、アラブ諸国の支持を受け、武力による対応を選んだ。
1948年5月14日、英国がパレスチナの統治を終了し、ユダヤ人はイスラエルの建国を宣言した。この新国家は、ユダヤ人を主体とする唯一の国となった。ソビエト連邦、米国など多くの国々が、イスラエルの独立を即座に承認した。
しかしイスラエルの建国の翌日、エジプト、トランスヨルダン(後のヨルダン)、イラク、シリア、レバノンの5つのアラブ諸国が正規軍を派遣し、サウジアラビアとイエメンも特別部隊を送り、イスラエルを攻撃した。アラブ連盟は、イスラエルを消滅させようとした。
新しく建国されたイスラエルは、軍隊を持たず、わずか3万人の民兵しかいなかった。武器も十分ではなく、アラブ連盟の攻撃により劣勢に立たされた。
しかし、米国と国連安全保障理事会の介入により、イスラエルとアラブの両方が6月11日から4週間の休戦が実現した。
この4週間の間に、イスラエルは全世界のユダヤ人からの支援を得た。寄付を通じて、武器の調達が可能となった。また、迅速に6万人以上の軍隊を組織し、統一された指揮体制を確立した。
一方、アラブ連盟内部では意見が分かれており、統一戦略が存在しなかった。再開された戦闘において、アラブ諸国の連合はイスラエルの強力な攻撃の前に崩壊した。
この戦争は、アラブ諸国の敗北という結果となった。戦後、イスラエルはパレスチナ地域の80%を掌握し、国連の決議が決めた範囲を超えて領土を確保した。一方、国連の決議で定められたアラブ国は建国できず、多くのパレスチナ人がイスラエル地域から去ることとなった。
2. 第二次中東戦争:スエズ運河戦争(1956年)
1954年には、エジプトの新大統領としてガマール・アブドゥル=ナーセル(以後:ナセル大統領)が就任した。ナーセルはアラブ民族主義を提唱し、その主要な目標の1つとしてイスラエルの消滅を掲げていたため、イスラエルは深い懸念を抱いていた。また、エジプトはスエズ運河を通過するイスラエルの船の出入りを禁じ、ティラン海峡(イスラエルが紅海へと通じる主要ルート) を封鎖していた。
1956年7月、ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言した。これに対して、運河の元の管理国である英国とフランスは激怒した。英国、フランス、イスラエルの3か国は協力し、イスラエルが先頭となってエジプトに攻撃を行った。8日間の戦闘の後、イスラエル国防軍はガザ地区とシナイ半島全域を占領した。
圧倒的な軍事力に劣るエジプトは、ナセル大統領が複数の貨物船を沈めてスエズ運河を封鎖するという手段に出た。その結果、石油の輸送が停止した。
英国、フランス、イスラエルの3か国の行動は、米国や旧ソ連などの国々から非難された。国連安全保障理事会の介入により、3か国は停戦協定を受け入れた。
エジプトは最終的にスエズ運河を回復させたが、この戦争はイスラエルに実質的な利益をもたらした。1950年以降、エジプトによって封鎖されていたティラン海峡は再開され、イスラエルの船舶はアフリカとアジアの間を自由に通過することが可能となった。
3.第三次中東戦争:六日戦争(1967年)
1948年の建国以来、イスラエルはアラブ諸国からの敵視を常に受けていた。イスラエルの南西にエジプト、東にヨルダン、北にシリアが位置している。特に、エジプトが支配するシナイ半島とガザ地区は、イスラエルにとっての大きな脅威であった。
第二次中東戦争後、ナセル大統領の威信は増した。彼はアラブ連盟の結成を積極的に進め、イスラエルに対する攻撃の準備を行った。
1967年4月、エジプトは10万の兵力と1千台の戦車を動員して、シナイ半島のイスラエル国境に進軍した。5月にエジプトは国連にシナイの境界からの国連軍の撤退を要求し、ティラン海峡を再度封鎖した。ヨルダンはエジプトとの共同防衛協定を結び、戦争の勃発が間近となった。
四方から敵意を向けられている状況に、イスラエルは先制攻撃を決意した。1967年6月5日、国内の防空任務には12機の戦闘機を残して、イスラエル空軍は全機を出撃させ、エジプト、ヨルダン、シリアを攻撃した。
エジプト空軍は完全に不意をつかれ、僅かな時間でほぼ全ての航空兵力が壊滅した。その後、イスラエル空軍はヨルダンとシリアの多数の航空機も撃墜した。わずか2日間で、3つのアラブ諸国の空軍は事実上麻痺し、イスラエルが空中優勢を完全に掌握した。
わずか6日間の戦闘で、エジプト、ヨルダン、シリアの連合軍は敗北した。イスラエルの損失は1千人未満であったのに対し、アラブ3国の死傷者は2万人を超えた。イスラエルは46機の航空機を失いながらも、敵方の400機以上の航空機を撃墜した。六日戦争は、20世紀の軍事史上で大勝利となった。
この戦争で、イスラエルはエジプトのガザ地区とシナイ半島、ヨルダンのヨルダン川西岸とエルサレム、そしてシリアのゴラン高地を占領し、数十万のアラブ人が避難を余儀なくされた。
六日戦争は、中東戦争の転換点の1つともされている。その後、アラブ諸国は事実上、イスラエルの存在を黙認するようになった。
4、第四次中東戦争:ヨム・キプール(贖罪の日)戦争(1973年)
この戦争は、基本的にパレスチナとの関係はなく、エジプトとシリアが「六日戦争」の後の報復として開始したものである。その目的は、前回失った土地を取り戻すことであった。
1973年10月6日、ユダヤ教の贖罪の日に、エジプトとシリアの連合軍が突然攻撃を開始した。戦争の初めの1、2日は、エジプト・シリア連合軍が有利であったが、3日間の激戦を経て、形勢は逆転した。イスラエルは反撃のみならず、2週間内で両国の首都を脅かした。
アラブ側とイスラエル側の背後には、ソビエト連邦と米国が存在した。米国とソビエトの交渉や、国連の仲介により、戦争は19日間で終結した。
この戦争後の1978年の「キャンプ・デービッド合意」で、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。翌年の「エジプト-イスラエル平和条約」により、エジプトはイスラエルを承認した最初のアラブ国となった。
贖罪の日の戦争中、サウジアラビアを中心とする石油輸出国機構(OPEC)は、イスラエルを支持する国々に対し石油禁輸を宣言し、エネルギー危機を引き起こした。石油禁輸は1974年3月まで続いた。その結果、世界の石油価格は約300%上昇し、1バレルあたり3ドルから12ドル近くに跳ね上がり、世界の政治や経済に大きな影響をもたらした。
5、第五次中東戦争:レバノン戦争(1982年)
1982年6月3日、イスラエルの駐英大使シュロモ・アルゴフ氏がロンドンで銃撃を受け、重傷を負った。イスラエルは、これをパレスチナ解放機構(PLO)の仕業と判断した。
6月6日、イスラエルは陸海空軍を動員し、レバノン内のPLOとシリア軍に対して大規模な攻撃を開始した。その後、わずか6日間で、イスラエルはレバノンの4分の1を占領し、首都ベイルートを制圧した。
PLOは交渉を試みたが、結局イスラエルの圧力の下でレバノンから撤退することを決定した。PLOはその後、8つのアラブ国に分散し、レバノン南部から姿を消した。
以上のように中東戦争は5回行われた。イスラエルは戦うたびに力を増しており、領土も拡大していった。今回のイスラエル対ハマスの戦闘が中東全体の戦争を引き起こすかは不明である。しかし、米国はイランやレバノンのヒズボラに、戦争への介入をしないよう警告している。
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