大道無名

2008/01/24
更新: 2008/01/24

【大紀元日本1月24日】悠久の歴史を有する中国は、各分野で幾多数多の英傑を輩出してきた。その中でも、私が特に印象に残るのは「老子」なる人物である。現在では、西安で道門の始祖として崇拝の対象となっているようだが、現役の頃、といっても2500年以上も前の中国中原のことであるから、文献でしか知るよりしかないのだが、台湾で出ている本によると、かの「孔子」と直接対決したことが二度あるという。真偽の程はもとより知る由も無いが、そこで老子は孔子を見るなり「欲が深い」と看破して、それ以上語ることもなかったという。愛妾を数人もつ儒家が片腹痛かったのであろう。彼は世の有様を見て自分の留まる所ではないと見切り、五千字の「道徳経」を残して早々と消えてしまった。

さて、本題にある「大道無名」とは何だろうか。老子は道の本質は「無形」と「無名」であると看破した。無形は本題ではないので置いておくとして、「無名」とは果たして、一部の文化人のように「名利名聞」に拘らず、執着しないことなのであろうか。私は、「目立たないところに注目しろ」ということだと思う。そこに真実が垣間見える。

中国では、経済発展が順調な一方で、反体制民主派等の正義の声は圧殺され裁判もなく投獄されている。社会主義体制の矛盾と腐敗を取材したジャーナリストや体制批判をした学者は無慈悲に投獄され拷問されている。彼らの行く先は、「強制労働収容所」「刑務所」等の類である。中国では、「正義の誓い」が強ければ強いほど、このような場所で拷問される。しかし、彼らこそ、われ等日本人が心から対話できる真の中国の友人である気がするのである。彼らは、もし中国が民主化されていれば、陽の当たる場所で脚光を浴びていたはずの「少し早く生まれた中国人」であり次世代中国を担うべき逸材、日本とアジアと真に対話できる「進歩的な中国人」であるように思う。

中国において、「無名なる人々」と呼ぶにふさわしいのは、言わずと知れた農民である。華やかに繁栄した一部沿海地区のIT関連の都市生活者と対比されるように、彼らの生活は社会保障もなく悲惨である。都市部に出稼ぎに出る労働者は「民工」と称され、二等国民のような蔑視を受け、公衆トイレの使用さえままならない。その他中国の「無名」な人々、中国西端部に住むチベット人は、自分達の文化を中共に収奪され、同化政策を強要され、一族の女性には断種手術までされていると聞く。目立たなくとも、彼らは「怒っている」のである。中朝国境では、どうであろうか?中共の無頼の同族、金王朝の圧制から逃れた所謂「脱北者」が中国東北部に30万人以上潜伏し、西側NPOの救いの手を待っている。彼らも「怒っている」いや「泣いている」のかもしれない。

さらに近年、弾圧されている法輪功学習者たち。彼らは、公園で気功の練習をし「真・善・忍」なる中国の伝統的な価値観を標榜したために、「共産至上主義」を主導する中共中央から、迫害を受けている。

2500年前の「老子」は、このような「国内無名の士」が弾圧される様を見て、中国中央政道を「可」としているであろうか?

関連特集: