【大紀元日本2月17日】台湾の台北市中心部に位置する同国・国防部の施設『国軍歴史文物館』(1961年開館)に、“南京大虐殺の際、同胞の中国人を107人斬った日本軍刀”なるものが展示されている。
“日本軍による中国人虐殺の歴史的証拠”と同館が述べるこの軍刀は、日本の敗戦後、国民党軍・魏炳文中将が接収したものを、1987年に開戦50周年を記念し、親族が同館に寄贈したものという。設置された拡大鏡を通して、刃の根元の部分には“南京の役 殺 一〇七人”と彫られた文字が読み取れる。
(南京大虐殺コーナー。日本兵の持つ軍刀部分に、実物が添えてある。
写真=相馬洋道)
軍刀のある南京大虐殺コーナーの解説は、民国26年(1937年)12月13日の南京入城から12月の下旬にかけて、日本軍が逃げ惑う難民を相手に“殺人競争”をおこなったとし、軍・民合わせて30余万人が日本軍により殺傷されたと総括。同事件を、人類文明史上の極めて大きな汚点と述べている。
当紙の取材に対して同館は、軍刀の寄贈者が亡くなっていることから詳細は確認できないとしつつも、軍刀は、いわゆる“100人斬り競争”の当事者である野田、もしくは向井少尉が使用したものに間違いない(“没錯”)と述べた。両少尉が斬ったとされた人数は105人、および106人であり、107人ではないとの指摘に対しては、一件が日本の新聞により報道された後に、再び一名を斬った可能性に同館は言及した。
大戦中、日本軍が上海から南京へ進軍する間、将校らが切り殺した中国兵の数を競い合ったとされる“100人斬り競争”は、長らく日本軍の残虐さの象徴とされ、国内外の注目を浴びてきた。2003年4月、競争の当事者とされる向井・野田両少尉の遺族が「記事は捏造」と、報道を行った新聞社らを相手取り訴訟を起こしたほか、近年は学術的な反証も非常に盛ん。関係者の証言や公的記録のほか、両少尉の職務内容や移動記録、戦闘は銃撃戦が主であったこと、日本刀の耐久性などを根拠に、100人斬り競争は起り得なかったとしている。
但し、中国のみならず台湾においても、日本軍による南京攻撃の際の“100人斬り競争”は言わば定説であり、中学・高校の授業においても取り上げられている。斯様な軍刀が展示されること自体は、必ずしも不自然であるとは言えない。
南京事件に詳しい亜細亜大学法学部教授・東中野修道先生の話:
『軍刀の元の所有者や使われた状況などが不明なため断定はできないが、107人斬ったというのは信憑性に欠けると考える。昨今の日本の研究は、日本軍将校らによる100人斬り競争が、新聞記者が点数稼ぎの為に作り出した“創作”であったことを指し示している。そもそも南京大虐殺も、国共合作下の中国の国民党政府が、世界に向け日本を誹謗する為に作り出したプロパガンダである可能性が極めて高い。彼らは歴史を、自らの政治目的達成のための道具として使った。この軍刀も、何らかの目的を持つ“創作”ではないか。』
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