【大紀元日本11月9日】中国共産党の胡錦涛総書記は8日欧州訪問の旅に出発し、イギリス、ドイツ、スペインを訪ねる。折しも、欧州における共産主義体制崩壊のシンボルであるベルリンの壁が崩壊したのは、16年前の1989年11月9日。中国共産党関連組織からの脱退者数が500万人を超える中、同主席の欧州訪問はとりわけ注目を浴びている。
大紀元時報は、今回の胡主席の欧州訪問について、プリンストン大学の陳奎徳博士=電子雑誌「観察」編集長=にインタビューした。陳博士は、北京の欧州カードのねらいと中共崩壊後の米中関係について分析し、ベルリンの壁崩壊と現在中国で拡大する脱党ブームについて比較した。陳博士が回答した内
陳奎徳博士
容は次のとおり。
欧州カードで米日連盟に対抗
この数年、北京は常に欧州との関係を重視している。米国、EU、ロシア、中国、日本という世界の五大国家と経済に重きが置かれている中で、中ロ協力は重要な地域上の政治意義があり、中共はロシアとの連結を優先している。しかし、中ロの歴史上の問題点から両国間の関係は緊密にはなりにくく、中ロ協力には限界があると北京は察している。それゆえ、日米の経済や政治、軍事上の日々堅固になる同盟傾向を恐れて、北京は日米同盟を牽制し、懸命にEUを丸め込もうとしているのである。
米国と欧州は、特にイラク戦争問題をめぐり、いくつかの相違がある。中共はこれらの相違を利用して、欧米間の亀裂を拡大しようとしている。EUと深い関係を作り上げ、そしてロシアとの協力も得て、米国に対抗しようとしている。
常に米国を批判するEUは、中国市場の誘惑に引きつけられ、中国に接近しているという。 しかし、世界的に重大な政治と軍事の危機に直面すれば、EUは中共との連盟より、米国を支援するであろう。中共はいくら外交手段を巧みにしても、欧米の伝統と価値観の繋がりを断ち切ることは難しいだろう。
胡錦涛は今回、ドイツの訪問も予定している。ドイツの前総理シュレーダー在任の時期、経済上関係のため、ドイツは比較的に中国共産党に緊密していた。東ドイツ生まれで保守派の女性首相が政治舞台に上がった現在、新政府はシュレーダー政府ほど親中ではないだろう。共産国家出身の人たちは、基本的に共産党に対し、より反感を抱いているのである。
東ドイツ人の脱国でベルリンの壁の崩壊
胡錦涛の欧州訪問・第二日目の11月9日は、欧州の共産党体制が解体する象徴となったベルリンの壁が崩壊した記念日。1989年のこの日に、ベルリンの壁を崩壊させたのは、民衆が独裁国家を捨てたことから始まった。
1989年8月、東ドイツ人は当時すでに開放されていたハンガリーに自由に行き来することができた。多くの東ドイツ人はこの機会を利用して西ドイツの駐ハンガリー大使館あるいは領事館に行って政治亡命を申請したのである。9月、ハンガリー国境は完全に開放して、チェコスロバキアも開放され、そこで3日間で1万2千余りの東ドイツ人が西側に殺到した。これが東ドイツの崩壊の序章となった。
同年11月5日、1万余りの東ドイツ人が自動車や列車、あるいは徒歩でチェコを通り西ドイツに渡った。9日には、一時間毎に120人が逃亡し、東ドイツは国境での管制を放棄した。数万人の東ドイツ人が西ベルリンにわたり、人々は歓喜に躍り、壁を壊し始め、ブランデンブルク凱旋門に上がった。 それから、数十年の鉄のカーテンは崩壊した。この日、共産主義解体の象徴の日となった。
現在、中国の内外で発生している脱党のブームはこのベルリンの壁崩壊によくたとえられる。その時東ドイツ人は自らの足で国を出ることで、共産国家からの退出を実行した。大量のエリートたちが東ドイツから流出し、最後に共産国家による統治の完全崩壊を招いたのである。
ソビエト共産党解体を招いたエリツィンの脱党
旧ソ連の解体も同様だ。当時、ゴルバチョフは多くの新しい政治を実行していたが、1990年7月2日のソビエト共産党28回大会で、ゴルバチョフの報告はやはり「人道の民主的な社会主義」を目標にしていた。 7月12日、ソビエトのもう一人の重要な指導者・エリツィン(当時、ロシア共和国最高会議議長)はソビエト共産党大会でソ連共産党から脱党の声明を発表し、この共産党大帝国に最後の致命的な一撃を与えた。
1991年8月17日、過激派とKGB幹部は、当時すでに大統領に就いたゴルバチョフの休暇中、クーデターを起こした。エリツィンは、その時突然執務室を出て、クーデターの戦車に跳び乗り、立憲政治を守り、自分たちが選出した大統領を守るよう、民衆に向かって呼びかけた。公衆の歓呼の中、戦車は方向を変えて、モスクワ市から撤退した。
その後、ゴルバチョフはモスクワに戻ると、真っ直ぐにエリツィンの執務室に行き感謝の意を表わした。同年8 月24日、ゴルバチョフは、ソビエト共産党総書記を辞職し、ソビエト共産党中央委員会を解散した。1991年12月までに、すべてのソビエト連邦の加盟共和国は完全に退出し、ソ連は解体した。
ベルリンの壁崩壊とソ連の解体は、いずれも武力で旧権力集団を崩したのではなく、自らこの体制から退出することで、旧権力集団を崩壊をさせた。このように形式はますます人々に受け入れられている。 現在、中国で多くの共産党員が中国共産党から脱退しているのも、同様な歴史の成り行きの前触れである。
脱党により共産体制崩壊を加速
現在、中国共産党の脱退者数はすでに500万人を超え、中国共産党政権はかつてない危機を迎えている。脱党は非暴力の平和的抗議の形で、このような服従しない抵抗運動はこれまでにも歴史上あったが、中国ではこのような大規模の運動はほとんどなかったと言える。
インドのガンジーが主導した非暴力・不服従運動は重大な効果を得た。しかし、ガンジーが当時直面したイギリスの統治と比べると、中国民衆が今直面している中国共産党の圧政ははるかに厳しいものである。
しかしながら、1989年から1991年末の間、東ヨーロッパと旧ソ連の共産主義の大いな崩壊は、現在の中国での脱党ブームと非常に類似している。しかも、政府官僚や高官が脱党する事件が相次ぎ、中国共産体制の崩壊を早めている。
中国共産党解体後の米中関係
米国にとって脅威だったイラクは、政権が交替し地域政治と外交関係で米国の友好国になり、将来的にはアメリカの中東での政策を支持し大きな役割を担うであろうと予測できる。このような関係は、中国共産党解体後の米中関係にも当てはまるであろう。