「党が撃てと言えば撃つ」 中共政権を支える危うい論理とその揺らぎ

2026/02/12
更新: 2026/02/12

最近、ある短編動画がネット上で拡散されている。動画では、記者が中国共産党(中共)の海軍の兵士にこう尋ねた。「この艦砲は対空射撃も可能ですか?」

兵士は一瞬の躊躇もなく答える。「党が撃てと言えば、どこでも撃つのだ」

この答えが不気味なのは、その過激さではない。むしろ、あまりに標準的で、熟練しており、人間的な迷いの痕跡がまったくない点にある。

観る者は考える暇もなく、気づく。もし命令の向かう先が人民であっても、この言葉は同じように適用されるのだ、と。

「これはスローガンではないく 歴史の歩みである」

「党が撃てと言えばどこでも撃つ」という言葉は、空虚な発言ではない。これは、何度も検証されてきた政治的な歩みである。

1989年、北京・天安門広場。戦車が学生を踏み潰し、機関銃が市民を射撃した。しかしそれは、兵士たちが目の前の対象が誰かを知らなかったからではない。その瞬間、「政治的正しさ」がすべての判断を凌駕していたのだ。

「これは合法か?」「彼らは民間人か?」「拒否できるか?」

そうした問いは存在せず、ある一つの論理だけが繰り返し叩き込まれていた。

「党は安定を必要とする」「党は命令を下す」「君は実行するだけ」

35年が経過しても、この歩みは止まったことはない。

張又俠が「政治生命への死刑」を宣告された理由

この背景を理解すれば、張又俠や劉振立に対する最近の政治法則が見えてくる。

公式声明はこう述べている。

「軍委主席責任制を深刻に踏みにじり破壊し、党の軍隊に対する絶対的指導を損なわせ、党の統治基盤を危うくした。軍隊の政治建軍、政治生態、戦闘力建設に甚大な破壊をもたらした」

注目すべきは、ここに具体的な軍事ミスや戦術的失敗はほとんど含まれていない点だ。

指摘しているのは一つの核心。軍隊の「政治的純度」である。言い換えれば、問題は「何を間違ったか」ではなく、「命令に従わない余地があるかどうか」である。

中共が本当に恐れるもの

多くの人は、中共が最も恐れるのは政変やクーデター、公然の裏切りだと思い込む。しかし実際は違う。

中共が恐れるのは、躊躇である。命令が下された際、誰かが一瞬でも立ち止まり、心の中で問いかける。「本当に実行すべきか?」

その一秒の迷いが存在する限り、「党が撃てと言えばどこでも撃つ」という鉄則は揺らぐ。

ソ連の結末 中共にとっての悪夢

中共内部で繰り返し研究されるソ連解体の理由は、経済改革の失敗ではない。二つの場面が衝撃を与えたのだ。

赤軍が赤の広場で抗議する民衆に発砲しなかった。

エリツィン逮捕のため派遣された特殊部隊が、逆にエリツィン側に寝返った。

この瞬間、銃は手の中にあったが、政治的正しさは効力を失った。軍隊が初めて「党の命令=道徳的正当性」とは限らないことを示したのだ。

中共は、この歴史の瞬間が二度と繰り返されることを最も恐れている。

張又俠事件が示す希望

もし軍隊が完全に「政治の道具」となり、兵士一人ひとりが動画のように迷わず「党が撃てと言えば撃つ」と答えるなら、高密度の政治的粛清や公開処罰は不要である。

逆に言えば、政治建軍や絶対的指導を強調すればするほど、党内部の不安は深まっている。

張又俠事件が示すのは、彼が何かを「破壊した」のではなく、軍隊が必ずしも思考が停止した執行機関ではないという現実である。

最後に避けられない問い

もし歴史が再び街頭、広場、学生、市民の前に現れたとき、もし軍に「安定維持」の命令が下されたとき、結末を本当に決めるのは、武器の先進性ではなく、ためらいなく引き金を引ける人が十分に残っているかどうかである。

天安門広場の虐殺が、中共にとって永遠に直視できない傷となったのは、流血の凄惨さのためではない。

それは一つの事実を証明してしまったからだ。「政治的正しさ」が最優先に置かれるなら、あらゆることが正当化され得るという事実を。

そして、ある政権がそれを維持するために、絶えず「政治的粛清」と「絶対的忠誠」を必要とする時、それはまさにかつてないほど弱く、脆くなっていることを示している。

歴史の本当の転換点は、しばしば銃声が響いた瞬間ではなく、誰かが初めて命令をすぐには実行しなかった、その一秒にある。

ここ数日、中共はまさにそのような逡巡(ためらい)と沈黙を経験している。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
朱穎