【時事解説】南京博物院騒動『江南春』18億円評価の闇 善人排除・悪人巨富の中国体制

2025/12/31
更新: 2025/12/31

中国で南京博物院騒動が激化。『江南春』が二度の「偽物」認定後、18億円の評価でオークション登場。寄贈文物5点消失、徐湖平前院長私物化告発で合同調査へ。善人館長自殺の歴史が暴く中共体制の闇とは?

かつて文物を守り、原則を貫いた博物館の館長たちは弾圧され、疎外され、中には命を絶った者もいた。今日の博物館界はすでに混乱と腐敗の温床となり、世論は沸騰し、中国共産党の複数の部門が合同調査に追い込まれている。

南京博物院のこの騒動は、一見すると『江南春』という絵の競売をめぐる争いのように見える。しかし、実際に浮かび上がったのはもっと残酷な現実の法則である。すなわち、中国の現行体制の下では、善人が倒れる一方で、悪人が巨富を得る。良心を守る者が排除されて初めて、抜け目なく立ち回る者が富を築くことができるのである。

そしてこの結果は、偶発的な過ちではなく、中国共産党体制が長年にわたり運営してきたことの当然の帰結である。

今回の番組では、『江南春』という一枚の絵画から話を始め、南京博物院事件の一部始終を一歩ずつひも解き、この騒動の背後に潜む戦慄の内幕を明らかにしていく。

一枚の絵が「競売に出た」経緯

時は2025年5月にさかのぼる。北京の春季美術品オークションのプレビュー会場で、明代の画家・仇英による作品とされる『江南春』の巻物が、オークション目録に登場した。その評価額は8800万元(約18億円)だった。

この情報に、ある人物がすぐに気づいた。

彼女の名は龐叔令。近現代の著名な収集家・龐萊臣の曾孫である。1959年、龐家は数多くの貴重な書画を国家に寄贈しなければならず、その中で南京博物院が最も多く、合計137点を受領していた。今回オークションに登場した『江南春』は、まさに当時龐家が寄贈した作品の一つだった。

つまり、これは明確な寄贈記録を持つ国家所有の文物である。龐叔令は直ちに国家文物当局に通報し、この作品が市場に出ることは許されないと訴えた。その後、オークション会社は『江南春』の出品撤回を発表した。

この時点で、多くの人は事件がこれで幕を閉じると思ったかもしれない。だが、本当の問題はここから表面化し始めたのである。

2025年6月末、裁判所の民事調停書の取り決めに従い、龐叔令は南京博物院の収蔵庫を訪れ、当時寄贈した137点の書画作品を確認した。その結果、庫内には132点しか残っておらず、5点が消えていた。

消えたのは『江南春』のほか、北宋・趙光輔の『双馬図軸』、明代・王紱の『松風蕭寺図軸』、清初・王時敏の『仿北苑山水軸』、清代・湯貽汾の『設色山水軸』の4点であった。

つまり、『江南春』だけの問題ではなかったのである。オークションの出品から倉庫での確認まで、一つの新たな疑問が公の場に突きつけられた。

――もともと民間から無償で寄贈され、法に則って国家博物館体系に組み込まれたこれらの文物は、一体どのような経緯をたどったのか? そして、どのようにして博物館の収蔵システムから市場へと流出していったのか?

「紛失ではなく処分だった」

5枚の絵が消えていたことが露呈すると、南京博物院は直ちに声明を発表した。

同院によれば、これらの作品は1960年代の段階で専門家によって「偽物」あるいは「贋作」と鑑定され、1990年代に当時の管理規定に従って「払下げ・調整」処理を行ったという。しかし龐家側は、こうした鑑定結果や処分経緯について、一度も通知を受けたことがないと主張する。

さらに調査の結果、『双馬図軸』は2014年6月、上海嘉泰オークションで230万元(約4600万円)で落札されたことが判明した。南京博物院が「偽画」と認定した作品が、堂々と市場に流通していたのである。

もし『江南春』が南京博物院で「贋作」とされたのなら、なぜ数十年後の市場で8800万元もの評価を受けたのか。本物であれば、当時の鑑定や処分の意味は何だったのか。贋作だとするなら、なぜ1億元近い価格が付いたのか。

南京博物院によると、『江南春』は1961年に張珩・韓慎先・謝稚柳の三人の専門家が「贋作」と判定し、1964年には王敦化・徐沄秋・許莘農らによる再審で「偽品」と確認されたという。

公表された情報によれば、『江南春』は1997年に南京博物院から江蘇省文物総店へ引き渡され、2001年4月16日、「仿仇英山水巻」という名目で南京市文物商店を通じて販売された。取引先の欄には単に「顧客」と記され、金額は6800元(約13万6千円)だった。

南京博物院の説明では、「贋作」認定→収蔵除外→払下げ→市場売却、という手続きに従ったという。

同院は「手続きは当時の規定に合致していた」と繰り返し主張した。しかし、まさにその「規定」こそが問題の核心である。

2025年、かつて二度「偽」とされた作品が、市場で8800万元(約18億円)の評価を受けた。

「偽作」→6800元で売却→約1億元評価。この過程で世論の焦点は変わった。

人々はもはや「本物か偽物か」だけを問うのではなく、こう問い始めた――「もしすべて『手続き通り』なら、その手続き自体こそが間違っていたのではないか?」

制度への疑問が噴出

ウィーチャットの評論アカウント「評論員畢舸」は、『江南春』の処分をめぐって未回答の問題が少なくとも三つあると指摘した。

第一に、情報開示の問題。

龐家は1959年に無償で書画作品を国家に寄贈したが、南京博物院は一度も寄贈者の遺族に対して鑑定結果や処分結果を通知しなかった。家族が法的手段で情報公開を求めるまで、事実は伏せられていた。

第二に、手続き承認の問題。

1986年に文化部が公布した『博物館収蔵品管理弁法』によれば、国有博物館が寄贈文物を除籍・処分する場合、省級以上の主管部門の承認を得る必要があり、寄贈者の知る権利を保障しなければならない。南京博物院は2001年に処分を行う際、正式な許可を得ていたのか。寄贈者側への通知はあったのか。核心的情報は未だ公開されていない。

第三に、鑑定と処分の妥当性の問題。

文物鑑定は時代的制約を受ける。たとえ真作でないと見做されても、『江南春』のように明確な来歴と歴史的背景を有する作品には研究価値・史料価値がある。そのような文物を「対外売却」する必要があったのか。より慎重な処置はなかったのか――これも再検討を要する。

さらに不可解なのは、2001年に6800元(約13万6千円)で売却された作品が、20年以上後に8800万元(約18億円)の評価を受けるという価格差の異常さである。そこには金額だけでなく、「顧客」と記された不明瞭な取引記録も含まれる。

――誰が真贋の決定権を握り、誰が作品の去就を決め、誰が寄贈者や公衆に説明責任を負うのか。

江蘇省文物総店――その役割とは

『江南春』の流転経路の中で、一つの機関が重要な鍵を握っている。それが「江蘇省文物総店」である。

南京博物院の公表によれば、『江南春』は1997年に同院から江蘇省文物総店へと引き渡された。その後、この作品は文物商店を経由して市場流通の段階へと移った。

調査が進むにつれ、メディアはこの「中継点」の不自然さに注目し始めた。成都の『紅星新聞』によれば、江蘇省文物総店は南京博物院と同一住所に所在していた。さらに注目すべきは、当該時期に南京博物院の院長徐湖平が総店の法人代表を務めていたという事実である。2006年には、その法人代表が、かつて南京博物院院長を務めた龔良へと変更されている。

このような背景を踏まえると、調査の焦点は一層明確になった。――文物流通を実際に掌握していたのは誰か? この流通の仕組みには、恣意的な操作や濫用の余地がなかったのか? という疑問である。

実名告発でエスカレート!故宮南遷文物私物化疑惑

「江南春」および関連する複数の絵画の行方が追及されていた最中、事件を決定的に動かす一件が起きた。ある実名告発の動画が公開され、事態は一気に激化したのである。

2025年12月21日、この動画がネット上に拡散した。投稿したのは南京博物院の退職職員・郭礼典であった。

郭礼典は実名告発の中で、矛先を南京博物院の前院長・徐湖平に直接向けた。彼の告発によれば、徐湖平は在職中、国家の文物主管部門の許可を得ることなく、南京朝天宮の倉庫に保管されていた「故宮南遷文物(抗日戦争期に南方へ移送された故宮の文物)」を無断で開封し、搬出したという。

彼の説明によれば、これらの文物は抗戦期以降、長年にわたり封印状態で保管されていた。ところがその封条が破られ、大量の貴重な文物が持ち出されたとされる。郭礼典は、南京に保管されている故宮南遷文物が2211箱・10万点以上に及ぶと述べ、自身の告発内容は「江南春」一作にとどまらないと明言した。

さらに注目すべきは、この問題が最近になって発覚したのではなく、2008年時点から40名以上の職員が連名で告発を行っていたという点である。しかし、長年にわたり実質的な対応はなされなかった。

実名告発の動画が公開されたのち、国家文物局は即座に作業チームを設置し、江蘇省も紀検監察・公安・文化観光省・文物など複数部門が合同調査チームを立ち上げた。その後、外部の報道でも伝えられたように、徐湖平夫妻は取調べのため連行された。

ここに至り、一つの筋道が明確となった。――「江南春」は孤立した事件ではなく、今回のオークション騒動も調査の出発点ではなかった。むしろ、それは長年蓋をされてきた問題群を一挙に表面化させた「偶然の引き金」にすぎなかったのである。

善人が倒れ悪人が富む歴史 中共文物流出

もし南京博物院事件を単に一枚の絵の真贋論争、あるいは特定官僚の私的な問題とみなすなら、それは表層的な理解にすぎない。

真に戦慄すべきは、この背後で繰り返されてきた構造そのものである。すなわち、善良な者が貶められ、弾圧され、時に破滅に追い込まれる一方で、制度の抜け穴を利用して金を得る者だけが無傷で逃げ切る、という循環である。

南京博物院の歴史は、すでにその痕跡を刻んでいる。あまり知られていないが、かつて同院には学問的評価の極めて高い元院長・曾昭燏がいた。彼女は中国博物館学者の先駆者の一人であり、生涯を文物研究と保護に捧げた。しかし、政治運動の嵐の中で汚名を着せられ、批判され、ついには自ら命を絶った。

もし曾昭燏の悲劇が政治抑圧の最も厳しい時代に起きたものであるなら、南京博物院のもう一人の元院長・姚遷の運命は、その後の「改革開放」期における同質の悲劇であった。

姚遷は「文物保護と制度遵守」を信条とした稀有な院長である。在任中、館蔵文物の商業利用を徹底的に拒み、「博物館を利益追求機関にする」発想に反対した。そのため上級機関や地方の利権集団と対立し、やがて標的となった。

当初は汚職疑惑を捏造され、帳簿調査で潔白が判明すると男女関係をでっち上げられ、それも否定されると「学術不正」と中傷された。1984年、中共メディアの『光明日報』は虚偽報道で彼を攻撃。剛直な彼はついに自ら命を絶った。事件は当時の党首胡耀邦を驚かせ、中央規律委員会が調査を実施、翌年、報道が虚偽と認定され、姚遷の名誉は回復し、『光明日報』は全国紙上で謝罪文を掲載した。

この一連の経緯こそ、南京博物院の今日の腐敗が突然の堕落ではなく、「善人が一人、また一人と排除された」果ての必然的結果であったことを示している。曾昭燏が追い詰められ、姚遷が死に、良心を持つ人々が消えた時、そこに残るのは迎合し抜け道を探す者ばかりとなる。

作家・李承鵬の言葉を借りれば、「善人を貶めて殺してしまえば、悪人だけが金を稼げる」のである。

「中共こそが中国文物流出の真犯人」

評論家・張傑は2009年、大紀元への寄稿で指摘した。「中共こそが中国文物流出の真犯人である」と。

1949年以降、中国共産党は文物を「守らなかった」のではない。むしろ、能動的かつ体系的に文物を外貨獲得の「輸出商品」に組み込み、国家的スキームとして管理してきた。計画経済期には文物を過小評価し、「合法貿易」の名目で大量に海外へ流出させた。1970〜80年代には、年間百万点を超え、総計では数千万点規模の文物が国外へ搬出されたと言われる。だが、それらで得た外貨の行方はいまなお不明である。

ゆえに今日私たちが目にする光景――「贋作」とされた絵画が数億元の評価額で取引され、博物館が寄贈者に知らせることなく国有文物を安値で処分・転売して利益を得るのは、偶発的な誤りではない。それは、文物を操作可能な資産と見なす体制が正常に機能している結果にほかならない。

この体制の下では、文物は文化遺産ではなく換金可能なチップにすぎず、博物館は守護者ではなく権力の従属機関である。「鑑定」「手続き」「適法性」といった言葉は、真実を覆い隠すための外衣に過ぎない。

南京博物院事件が暴き出したのは、一幅の絵の行方ではない。それは、中国共産党が数十年にわたり「文化保護」を唱えながら、裏では伝統文化を系統的に掘り崩し、文物を資金源として食い尽くしてきたという、体制そのものの真実である。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
唐青