「手術は成功しました」
そう告げられた直後、生後5か月の赤ちゃんは命を落とした。中国で相次ぐ乳児手術死。説明されない経緯が、社会全体の不信を広げている。
中国浙江省寧波市で、生後5か月の赤ちゃんが心臓手術後に死亡した事件は、単なる医療事故として片づけるには、あまりにも多くの疑問を残している。司法解剖の結果により「本来は手術を必要としない状態だった可能性」が示されたことで、医療判断の正当性そのものが問われる事態となった。
亡くなったのは「小洛熙(シャオ・ルオシー)」と呼ばれる女児で、本記事では「洛熙ちゃん」と記す。手術が行われたのは、寧波市で最も権威があるとされる公立の寧波大学付属婦女児童医院である。
(身分証を手に実名で訴える洛熙ちゃんの母親、鄧蓉蓉さんと、手術後の洛熙ちゃんの様子など)
手術前
洛熙ちゃんは早産で生まれたが、その後の成長は安定していた。定期検査で心房中隔欠損(先天性心疾患の一つで、心臓の左右の心房を隔てる壁に穴がある状態を指す)が見つかり、心臓エコーでは3mmと7mmの欠損が確認されたという。
家族は自ら情報を調べ、多くの乳児では1歳前後までに自然に閉じる可能性があることを知り、経過観察という選択肢も検討していた。しかし担当の心臓外科医は、欠損は大きく自然閉鎖の可能性は低い、放置すれば肺や成長、脳の発育に影響が出ると説明し、早期手術を強く勧めた。
手術は脇の下を小さく切開する、体への負担が少ないとされる低侵襲手術で、所要時間は2~3時間、再発はなく、リスクは極めて低いとされた。家族はその説明を信じ、手術に同意した。

手術当日
手術は11月14日午前9時25分に開始された。しかし予定時間を過ぎても終了せず、午後になっても家族への詳しい説明はなかった。午後3時から4時にかけて、家族は4度にわたり病院に問い合わせたが、医師や責任者との面会は拒まれたという。
午後4時ごろになって初めて、医師から「手術は順調ではない」「生死は五分五分だ」と告げられた。家族によると、手術中に起きていた重要な出来事については、それまで一切知らされていなかった。
後に分かったこととして、手術は途中でうまくいかず、いったん閉じた胸を再び開いて再手術が行われていたとされている。
(本件に関する過去記事)
成功と告げられた直後の死
16時半ごろ、洛熙ちゃんは手術室から出てきたが、顔は大きく腫れ、全身に管がつながれた状態だった。別の医師からは「手術は成功した」と説明されたものの、その数時間後の22時03分に死亡が宣告された。一方で、22時20分の医療記録には「生命徴候は安定」と記されていたという。死亡時刻と記録の内容が一致しない点も、家族の疑念を深めた。

記録はない 映像もない
家族は手術室の監視カメラ映像や詳細な手術記録の開示を求めたが、病院側は「記録は残っていない」として応じなかった。命に直結する医療行為でありながら、第三者が検証できる映像が存在しないという説明は、世論の強い不信を招いた。
赤ちゃんの母親である鄧蓉蓉さんは、ICUに付き添った際の様子について、涙ながらに次のように語っている。
「娘の全身は紫色になり、顔や体には血が付いていた。目尻には、まだ乾いていない大きな涙が一粒残っていた」
また鄧さんは、事件について発信した投稿が複数のSNSプラットフォームで削除されたことにも触れ、「この出来事をなかったことにしないでほしい」として、ネット上での注目と情報拡散を呼びかけている。
司法解剖が示した別の事実
その後、家族の求めにより行われた司法解剖では、洛熙ちゃんの心臓の欠損は約3mmと軽度で、自然治癒が期待できる範囲だったことが明らかになった。病院が説明していた複雑な先天性心疾患は確認されず、専門医からも「症状がなければ手術は不要だった可能性が高い」との見解が示されている。
さらに、手術後に本来縫合されるべき切開部が十分に処置されていなかった疑いがあることや、胸腔内に大量の出血が確認されたこと、そして心臓の穴をふさぐために使われた人工膜(パッチ)が、手術記録では「除去した」とされていたにもかかわらず、実際には心臓内に残っていたことなどが報告書に記されていた。
12月19日、この司法解剖報告書の内容が公表されると、疑念が一気に広がり、関連する話題は中国のSNSで急速に拡散した。「小洛熙」の名は当日、中国SNSウェイボー(微博)のトレンド1位になった。

洛熙ちゃんの母親が報告書を公開した同じ日、父親もSNSに投稿し、「娘にはまったく病気がなかった。健康だった。彼女は死ぬべきではなかったし、そもそも手術を受ける必要はなかった」「手術記録は公然と虚偽だ。病歴のどこを信じればいいのか」と強い言葉で訴えた。
ネット上では怒りの声が相次いだ。「両親に『手術は成功した』と伝えたのは欺瞞だ」「赤ちゃんを実験台にしたのではないか」といった書き込みが広がり、中には「これは医療事故ではなく、殺人だ」と断じる過激な意見も見られた。


同じ病院で続く乳児死亡例
この事件が大きな反響を呼んだ背景には、同じ病院の同じ担当医が関与したとされる乳児死亡例が過去にもあったとの書き込みがSNS上で拡散したことがある。いずれも、手術時間が事前説明より大幅に長引き、手術後に急変したという共通点がある。ただし、これらは現時点では当局が公式に確認した事実ではなく、ネット上で共有されている情報にとどまる。
(本件に関する過去記事)
「過剰医療」はなぜ生まれるのか
洛熙ちゃんの事件をめぐって、多くの人が口にしたのが「なぜ、急ぐ必要のない手術が行われたのか」という疑問だ。その背景には、中国の医療制度が長年抱えてきた構造的な問題がある。
中国の公立病院は、表向きは公共機関だが、実際には強い収益あげるよう圧力を受けている。医師個人や診療科は、手術件数や高度医療の実績、研究成果などによって評価され、昇進や報酬に影響する仕組みが存在する。
そのため、経過観察で済む可能性がある患者であっても、「今手術をした方がよい」「早期介入が最善」と説明され、手術が選択されやすい傾向があると指摘されてきた。とくに小児心臓外科のような専門分野では、症例数そのものが医師の実績と直結する。
一方で、中国では医療判断に対して家族が異議を唱える文化が弱い。
「専門家がそう言うなら従うしかない」という意識が根強く、別の医師の意見を求めるセカンドオピニオンも一般的とは言い難い。
医師から「放置すれば命や発育に影響が出る」と強調されれば、親としては手術を拒む心理的余地はほとんど残らない。洛熙ちゃんの家族も、まさにその状況に置かれていたとみられる。
加えて、医療事故が起きた際に、第三者による検証が入りにくい仕組みが、責任の所在を曖昧にしていることも問題視されている。
誰が判断し、誰が責任を負ったのか
当局は医療紛争として法に基づき対応中とし、院長や関係医師を処分したと発表したが、具体的な氏名は公表されていない。誰が判断し、誰が責任を負ったのかは、いまだ明確になっていない。
洛熙ちゃんの家族が求めているのは、「誰かを断罪すること」ではなく、「なぜ、健康だった可能性のあるわが子が命を落としたのか」を明らかにすることだ。その問いに明確な答えが示されない限り、この事件が投げかけた不信は、個別の医療事故を超えて、中国の医療体制そのものへの疑問として残り続けることになりそうだ。





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