【全文】ミレイ大統領、ダボス会議で社会主義の蔓延について警鐘 「西側諸国の危機」

2024/01/23
更新: 2024/01/23

ダボス会議に出席したアルゼンチンミレイ大統領はこのほど、西側諸国で社会主義が蔓延し、人々の自由が脅かされていると警鐘を鳴らした。政府権限の拡大に危機感を示し、独裁体制こそが問題の根源だと指摘した。

19世紀末には自由主義大国だったアルゼンチンはいかにして没落し、そこから私たちはどのような教訓を得ることができるのか。ミレイ大統領の演説の全文を紹介する。

***

こんにちは。みなさんありがとう。

本日は、西側世界が危機に瀕していることを伝えたいと思う。西側の価値観を守らなければならないはずの人々が、社会主義、ひいては貧困へと不可避的につながる世界像に取り込まれているのだ。

残念なことに、ここ数十年の間に、西側世界の主要な指導者たちは、自由主義のモデルを放棄し、集団主義と総称する様々なモデルを追い求めてきた。ある者は人々を助けたいという善意が出発点となり、またある者は自らが特権階級の一員になりたいという願望に突き動かされてきた。

ここでは、集団主義的な実験は、人々を苦しめている諸課題の解決策になり得ず、むしろ、諸課題の根本的な原因であることを伝えたい。この2点を語る上で、私たちアルゼンチン人は絶対的な発言権を有している。

1860年にアルゼンチンで自由主義が導入されて以来、私たちは35年の歳月を経て世界をリードする大国となった。そして、過去100年の間に集団主義を受け入れたため、国民は構造的に貧困化し、アルゼンチンは世界140位にまで没落した。

議論を始める前に、まず自由企業資本主義が世界の貧困をなくすための唯一の実行可能なシステムであるだけではなく、それを達成するための唯一の道徳的に望ましいシステムであるという実証を確認しておくことが重要だろう。

経済が発展した歴史を見てみると、およそ紀元1年から紀元1800年までの間、世界の一人当たりGDPは実質的に一定だったことがわかる。

人類史上の経済成長をグラフにすると、ホッケーの棒のような折れ線になる。時間軸で見ると、グラフの90%はほとんど変化がなく、19世紀に入ると指数関数的に上昇し始めることがわかる。

この停滞の歴史における唯一の例外は、アメリカ大陸が発見された15世紀後半だ。この例外を除けば、紀元1年から紀元1800年までの間、世界の一人当たりGDPは停滞していた。

資本主義が経済システムとして採用された瞬間から爆発的な富をもたらしたというだけでなく、データを見ると、全期間を通じて成長が加速し続けていることがわかる。

紀元1年から紀元1800年までの間、一人当たりのGDP成長率は毎年0.02%前後で安定していた。つまり、ほとんど経済成長はなかったのだ。19世紀の産業革命以降、年平均成長率は0.66%になった。この成長率で一人当たりGDPを2倍にするには、107年もかかる。

1900年から1950年までの期間では、経済成長は年率1.66%に加速した。つまり、一人当たりGDPを2倍にするのに必要な年数は107年ではなく、66年になった。さらに、1950年から2000年までの期間で見れば、成長率は2.1%となり、わずか33年で世界の一人当たりGDPが2倍になる計算だ。

この傾向は止まるどころか、今日まで続いている。2000年から2023年に至る期間では、成長率は驚異の年率3%に加速し、わずか23年で世界の一人当たりGDPが2倍になる計算だ。

つまり、1800年から今日に至るまで、すなわち産業革命以降、世界の一人当たりGDPは15倍以上になった。世界人口の90%を貧困から救う好景気になったのだ。

1800年には世界人口の約95%が極度の貧困状態にあったことを忘れてはならない。そしてこの数字は、パンデミック前の2020年には5%にまで減少している。結論は明白だ。

経済システムとしての自由貿易資本主義は、諸課題の原因であるどころか、地球全体の飢餓、貧困、極度の貧困を終わらせる唯一の手段なのだ。実証的な証拠に疑いの余地はない。

自由企業の資本主義が生産性の面で優れていることは自明であるため、左翼は道徳的な問題があるとして資本主義を攻撃してきた。多くの独裁者が主張してきたように、資本主義は正義ではないというのだ。資本主義は個人主義的だから悪であり、集団主義は利他的だから善だと彼らは語る。もちろん、他人の金を使ってだ。

だから彼らは社会正義を主張する。しかし、最近になって先進国で流行し始めたこの概念は、アルゼンチンではすでに80年以上前から政界で一貫して主張されてきたものに他ならない。問題は、社会正義は正義ではなく、一般的な幸福に貢献しないということだ。

反対に、それは暴力的であるため、本質的に不公正な考え方だ。国家は税金で賄われ、税金は強制的に徴収されるから不公平なのだ。私たちの誰もが、自発的に税金を納めていると言えるだろうか?国家は強制力によって賄われており、税負担が高ければ高いほど強制力が増し、自由が減る。

社会正義を推進する人々は、経済全体が一つのパイであり、各々に分割することができるという考え方から出発する。しかし、そのパイはもともとそこにあるわけではない。それは、例えば経済学者イスラエル・カーズナーが市場発見プロセスと呼ぶものの中で生み出される富である。

提供する商品やサービスが顧客の需要に合わなければ、その需要に合う商品を生産しない限りそのビジネスは失敗する。いっぽう、良質な製品を魅力的な価格で提供することができれば事業はうまくいき、生産量も増える。つまり市場とは、資本家が前進しながら正しい道を見つける発見のプロセスなのだ。

しかし、資本家が成功したときに国家が懲罰を下し、発見のプロセスを邪魔しようものならば、資本家のインセンティブは失われ、その結果、生産量は減少する。

パイは小さくなり、社会全体に悪影響を及ぼす。集団主義は、こうした発見のプロセスを阻害し、発見の流用を妨げることで、結局は企業家の手足を縛り、より良い商品やサービスをより良い価格で提供することを妨げてしまう。

ではなぜ、学術界や国際機関、経済理論家や政治家たちは、世界人口の90%を極度の貧困から脱却させただけでなく、それをさらに加速させてきた経済システムを悪者扱いするのだろうか?

自由貿易資本主義のおかげで、世界は今、最高の瞬間を迎えている。全人類の歴史において、今日ほど繁栄した時代はない。これはすべての人に言えることだ。今日の世界は自由で、豊かで、平和で、繁栄している。特に、経済的自由が拡大し、個人の財産権が尊重されている国にとってはそうである。

自由度の高い国々の豊かさは、(自由が)抑圧されている国の12倍だ。自由主義国の最低パーセンタイル(にいる人々)は、抑圧された国の90%の人々よりも裕福な生活ができている。貧困は25倍低く、極度の貧困は50倍低い。また、自由主義国の国民は、抑圧された国の国民より25%も長生きしている。

さて、リバタリアニズムとは何を意味するのだろうか?アルゼンチンにおける自由の最大の権威であるアルベルト・ベネガス・リンチ・ジュニア教授の言葉を引用すれば、「リバタリアニズムとは、生命、自由、財産に対する権利を擁護し、非侵略の原則に基づき、他者の生命事業を無制限に尊重すること」である。

その基本的な制度は、私有財産、国家介入のない市場、自由競争、分業と社会的協力であり、成功するには、他者により良い品質の商品を、より良い価格で提供しなければならない。

言い換えれば、資本主義の成功者は、他人の富を横領するどころか、一般の幸福に貢献する社会的恩人なのである。結局のところ、成功した企業家は英雄なのだ。

そしてこれこそが、私たちが未来のアルゼンチンのために提唱しているモデルであり、リバタリアニズムの基本原則に基づくモデルだ。私たちは、生命と自由、そして財産を守る。

さて、自由な企業と資本主義、経済的自由が、世界の貧困をなくすための並外れた手段であることが証明された。そして、私たちは人類史における最高の時を迎えている。ではなぜ、西洋社会が危機に瀕していると言えるのだろうか。

自由市場や私有財産、その他のリバタリアニズムの制度といった価値観が守られるべき国々において、一部の政治的・経済的エリートがリバタリアニズムの基盤を損ない、社会主義への扉を開き、私たちを貧困、悲惨、停滞に陥れる可能性があるからだ。

社会主義は常に貧困をもたらし、導入した国々はいずれも失敗してきたことを決して忘れてはならない。経済的、社会的、文化的に失敗しただけではなく、1億人以上の人命を奪ってきた。

今日の西側の本質的な問題は、ベルリンの壁が崩壊し、圧倒的な経験的証拠が示された後でもなお、貧困につながる社会主義の思想を主張し続ける人々と向き合わないといけないということだけではない。

自国の指導者、思想家、学者が、誤った理論的枠組みに頼って、人類史上最大の富と繁栄をもたらした制度の根幹を損なっているのだ。

私が言う理論的枠組みとは、新古典派経済理論のことである。新古典派経済理論は、不本意ながら、あるいは意図せずして、国家による介入、社会主義、社会的劣化につながる一連の手段を設計している。

新古典派経済理論の問題点は、彼らが惚れ込んだモデルが現実に即していないということだ。そのため彼らは、モデルの前提を見直すのではなく、市場の失敗と思われるものに自らの過ちを押し付けてしまう。

想定される市場の失敗を口実に、規制が導入される。こうした規制は価格システムに歪みを生じさせ、経済計算を妨げ、その結果、貯蓄、投資、成長をも妨げる。

主要な問題は、リバタリアンであるはずの経済学者でさえ市場とは何かを理解していないという事実にある。もし理解していれば、市場の失敗などありえないことにすぐ気づくだろう。

市場とは、需要と供給の曲線を描いた単なるグラフではない。市場とは、自発的に所有権を交換する社会的協力のメカニズムなのだ。したがって、この定義に基づけば、市場の失敗について語ることは矛盾している。市場の失敗など存在しない。

取引が自発的なものであれば、市場の失敗が起こりうる唯一の状況は強制がある場合であり、一般的に強制できるのは暴力を独占している国家だけである。

結論を言えば、もし市場の失敗があると考える人がいたら、国家による介入があるかどうかを確認することをおすすめしたい。もしそうでないとわかったら、もう一度確認することをおすすめしたい。問題があるとすれば、往々にしてそこにあるだろう。市場の失敗など存在しないのだ。

新古典派が言ういわゆる市場の失敗の例として、経済の集中構造が挙げられる。1800年以降、人口が8〜9倍になり、一人当たりのGDPは15倍以上になった。つまり、極度の貧困が95%から5%に減少したのだ。

しかし、リターンが拡大するということは、いわゆる独占と呼ばれる集中的な構造を伴う。ではなぜ、新古典派理論にとってこれほどの幸福をもたらしたものが、市場の失敗なのだろうか?

新古典派経済学者は常識にとらわれない。モデルが失敗したら、現実に怒るのではなく、モデルを変えてしまえばいいのだ。新古典派モデルが直面するジレンマは、自分たちが失敗だと考えるものを攻撃することで、市場の機能を完全なものにしたいと言うことだ。しかし、そうすることで、社会主義への扉を開くだけでなく、経済成長にも逆行することになる。

例えば、独占企業を規制し、その利潤を破壊し、成長するリターンを破壊することは、自動的に経済成長を破壊することになる。

集団主義モデルの惨憺たる失敗と、自由世界における紛れもない発展を考えると、社会主義者たちはそのアジェンダを変更せざるを得なかった。彼らは経済システムに基づく階級闘争を置き去りにし、これを生活や経済成長にとって同様に有害な他の社会的対立に置き換えた。

これらの新しい闘いの最初のものは、男と女の間のばかげた不自然な闘いであった。リバタリアニズムはすでに男女平等を定めている。私たちの信条の礎石は、すべての人間は平等に創造され、生命、自由、所有権を含め、創造主によって与えられた同じ不可侵の権利を全員が持っているということである。

急進的なフェミニズムのアジェンダがもたらしたのは、経済プロセスを阻害し、社会に何の貢献もしていない官僚に仕事を与えるための国家介入の拡大だけである。例えば、このアジェンダの推進に専念する女性省や国際組織である。

社会主義者が主張するもうひとつの対立は、自然と人類との対立だ。人類は、何としてでも守るべき地球を傷つけていると主張し、人口抑制メカニズムや中絶アジェンダを提唱するまでに至っている。

残念なことに、こうした有害な考え方は私たちの社会に根を下ろしている。ネオ・マルクス主義者たちは、メディア、文化、大学、そして国際機関を利用することで、西欧世界の常識を取り込むことに成功したのだ。

国際機関への浸透は最も深刻なもので、おそらくこれらの機関は加盟国の政治的・経済的決定に多大な影響力を持っているからだ。

幸いなことに、あえて声を上げようとする人々が増えている。なぜなら、こうした考え方に断固として立ち向かわなければ、国家による規制が強化され、社会主義が進行し、貧困と自由が減少し、その結果、生活水準が悪化の一途を辿るという運命を甘受するほかないのだ。

西側諸国は残念ながら、すでにこの道を歩み始めている。多くの人にとって、西側諸国が社会主義に傾いたということは馬鹿げているように聞こえるかもしれない。国家が生産手段を所有するという、社会主義に対する伝統的な経済学的定義に固執するならば、この話は確かに馬鹿げたものに聞こえるかもしれない。しかし、こうした定義は現在の状況に照らして更新されるべきだ。

今日、国家が生産手段を直接支配しなくても、個人の生活のあらゆる側面をコントロールすることができる。貨幣の印刷、債務、補助金、金利の調整、価格統制、そしていわゆる市場の失敗を是正するための規制によって、国家は何百万という個人の生活と運命をコントロールすることができる。

結局のところ、大きな違いはない。彼らは皆、国家は個人の生活のあらゆる面を管理すべきだと言っている。彼らは皆、人類史上類を見ないほどの発展をもたらしたモデルから目を背け、それと正反対のものを擁護している。

私は、西側諸国に繁栄への道を取り戻すよう呼びかけるためにここに来た。経済的自由、制限された政府、私有財産に対する無制限の尊重は、経済成長に不可欠な要素である。集団主義が生み出す貧困化は幻想でもなければ、逃れられない運命でもない。それは私たちアルゼンチン人がよく知っている現実そのものだ。

私たちはそれを経験してきた。というのも、先に述べたように、私たちを豊かにしてきた自由(主義)モデルを放棄することを決めた日から、私たちは負のスパイラルに巻き込まれ、日に日に貧乏になっていったのだ。

これが私たちが経験してきたことだ。自由(主義)モデルによって豊かになった西側諸国が、この隷属の道を歩み続ければ何が起こるかを警告するためにここにいるのだ。

どんなに豊かであろうと、天然資源が豊富であろうと、教育を受けた熟練した国民であろうと、中央銀行にどれだけの金塊があろうと、市場や競争、価格システム、貿易、私有財産を所有する自由といった機能を妨げる措置が採られれば、行く着く先は必ずや貧困であると、アルゼンチンの実例は証明している。

政治カーストや国家に寄生する寄生虫に脅かされてはならない。権力と特権を保持することだけを望む政治家階級に屈服してはならない。あなた方は社会の恩人だ。英雄なのだ。私たちがこれまでに経験したことがないような、高度に繁栄した時代を、あなた方は築き上げたのだ。

あなた方の野心が不道徳だとは誰にも言わせない。大金を稼げているのであれば、それはあなたがより良い製品をより安い値段で提供し、それによって一般的な幸福に貢献しているからだ。

国家の進出に身を委ねてはならない。国家は解決策ではなく、問題そのものだ。この物語の真の主人公はあなた方に他ならない。安心してほしい。今日からアルゼンチンはあなた方の揺るぎない味方だ。

ご静聴いただきありがとう!自由万歳!

(了)

政治・安全保障担当記者。金融機関勤務を経て、エポックタイムズに入社。社会問題や国際報道も取り扱う。閣僚経験者や国会議員、学者、軍人、インフルエンサー、民主活動家などに対する取材経験を持つ。