日本人は「コオロギを食べる人」になるのか? 神の恵みとしての食物を考える

2023/02/28
更新: 2023/04/04

もう故人になられて久しいが、江戸屋猫八師匠(3代目)の物真似「コオロギの鳴き声」は絶品であった。

草むらのなかで密やかに鳴くコオロギの音(ね)がまことに風情豊かに聞こえ、日本人の好みにぴたりと合っていたことを懐かしく思い出す。

鈴虫はリーンリン、松虫はチンチロリン、クツワムシはガチャガチャ。ではコオロギはというと、コロコロと鳴くらしい。ただし猫八師匠の名人芸は、絶妙な間(ま)をとって観客の耳を高座という「草むら」にぐっと引き寄せてから、ホーホーと聞かせていた。

姿を見ずにコオロギの鳴き声だけ楽しんでいれば気が楽なのだが、リアルなコオロギの形を想像しながら、以下の本題に入らなければならない。

日本人は、本当に、コオロギを食べるつもりなのか。

1973年の米映画『パピヨン』でスティーブ・マックイーンが演じる主人公は、劣悪な環境の獄中で、ムカデなどの虫(ムカデは昆虫ではないが)を食べて命をつなぐ。

人間は生きるために食べねばならない。私たち日本人にも、第二次大戦直後の食糧難のときに、野原のイナゴやバッタをとってきて腹の足しにした歴史が確かにあった。飢餓という、生命にかかわる異常事態のなかで「昆虫食」があった事実を否定することはできない。

現代の日本でも、長野や岐阜など山間の地方では、例えば蜂の幼虫やイナゴを佃煮の材料に用いているところがある。もとは、山間部では摂りにくい動物性タンパク質を補う手段だったのだろう。今ではその土地の「名産」といってもよいが、これはむしろ珍味の類であって、日本人の食事の主幹ではない。

東南アジアをはじめとして、昆虫食に寛容な国は世界に少なくない。それは、その国の文化や歴史のなかで定着した食習慣であるので、他国の者がその是非をいう必要もないだろう。その国の人々は昔からそれを食べて生きてきた、ということに尽きる。

実は、日本人が好きな「生卵かけご飯」も世界の食事のなかでは驚愕される部類に入る。ただし、現在日本で市販されている鶏卵は、おそらく世界一といってよいほどの衛生管理がなされているので、サルモネラ菌など食中毒菌のリスクは低い。とは言え、たしか昭和中期ごろまでは、ご飯の上で割った卵が腐敗していて食卓で大騒ぎすることがたまにあった。

では、日本における昆虫食、とりわけ昨今話題になっている「コオロギ入りの食品」は、どうであるか。

コンビニやスーパーで全国的に販売している大手の製パン会社の商品のうち、どのアイテムにコオロギパウダーが入れられているか筆者は詳しくないが、すでに製品化され市場にでていることは確かである。

本記事で取り上げたいのは、それに該当する食品についての論評ではない。日本人の「たべもの」について、当たり前のことと知りつつも、改めて書かねばならないほどの危機感を覚えたからである。

風聞によると、コオロギは「動物性タンパク質が豊富で、大量に飼養しやすい。残飯をエサとして与えればフードロスの軽減にもつながり、人類の食糧問題解決の一助にもなる」という。

なるほど、まことに合理的ではあるらしい。しかし、その合理性のなかに、日本人が古来大切にしてきた神や自然への崇敬の念はあるのだろうか。

崇敬という表現が硬ければ、食事前の「いただきます」と言い換えてもよい。

穀物も野菜も、魚や貝も、牛豚も鶏も、その命と引き換えに人間の食物になってくれたのである。それを人間に恵んでくれたのは天上の神様、あるいは大自然といった、人間よりはるかに偉大で尊い存在に他ならない。それゆえに、日本人の「いただきます」は不変の教育なのだ。

コオロギは野ネズミやウシガエルの好物である。その役目を果たすために、コオロギは自然界にいる。他国ではいざ知らず、コオロギを平気で食う日本人になっては、亡き猫八師匠に申し訳が立たない。

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。