昭和14年(1939)に発売されたレコードと言えば、もちろん床に落とせば割れるような硬質のアナログレコードだっただろう。もっとも「レコード」という音楽が聴ける夢のような円盤を、今の若い人は見たことがないかもしれない。
「昭和」は遠くなりにけり
昭和14年は日米開戦の前であったが、中国大陸では戦争が行われていた。そうした背景もふまえて本稿を進めねばならない令和の現代は、あの60数年を重ねた昭和と、なんと隔たってしまったことかと思う。
その昭和14年に、テイチクレコードから発表された軍国歌謡に『九段の母』という歌がある。
歌の主人公は戦死した兵士の母親であるが、これを男性歌手の塩まさる氏が歌ったことにより、戦地の兵士に大いに共感された。
戦後は、二葉百合子さんがカバーでこの曲を歌うことになる。
二葉さんの『九段の母』と『岸壁の母』は、まさに「日本の母」の心情を見事に歌い上げて、その時代を知る日本人の涙をしぼった。なお二葉百合子さんは今もご健在で、今年6月には92歳になられることを、筆者(鳥飼)の大きな喜びとともに付記しておく。
もう見えない「九段の母」の残影
戦死した息子が祀られている靖国神社(正字表記は「靖國神社」)へ、はるばる田舎から上京し、杖をついてやってきたのは年老いた母君、ただ一人。
社殿の前にひざまずき、いまは御霊となった息子に、武勲をたたえる金鵄勲章(きんしくんしょう)を見せて「逢いにきたぞや」と語りかける。
その場面をうたった『九段の母』の歌詞は、以下の通りである。
「上野駅から九段まで、かって知らないじれったさ。杖をたよりに一日がかり。倅(せがれ)きたぞや、逢いにきた」
「空を突くよな大鳥居。こんな立派なお社に、神と祀られ、もったいなさよ。母は泣けます、うれしさに」
「両手あわせて、ひざまずき、拝むはずみのお念仏。はっと気づいて、うろたえました。倅ゆるせよ、田舎もの」
「鳶(とび)が鷹の子うんだよで、今じゃ果報が身に余る。金鵄勲章が見せたいばかり、逢いに来たぞや、九段坂」
歌のなかの「九段坂」が出てくるまで長い引用になったが、あまりに見事な歌詞なので省略するに忍びず、全文を書いてしまったことをご容赦いただきたい。
ここで余計な解説を挟むのは無用というものだが、歌の根底に流れるのは、もちろん表には全く出さない母親の深い悲しみである。
九段坂の上に、戦没者を祀る東京招魂社(とうけいしょうこんしゃ)が設けられたのは明治2年(1869)。明治12年に、現在の靖国神社に改称される。
その場所へ向かう九段坂は、少なくとも昭和の中期、つまり戦没者の親が存命であった頃まで「特別な意味をもつ坂」であったと言ってよい。
明治までは急坂の難所
江戸期まで、この場所は九段(九層)の大きな階段状になっている急勾配の斜面であった。
明治になり、階段をけずって坂道になったというが、それでもかなりの急坂であったため、荷車や客を乗せた人力車には相当な難所だったらしい。坂下には車押しの「立ち人足」もいて、ここで客待ちしながら手間賃を稼いでいた。確かに『東京名所図会』の九段坂の図を見ると、坂道にかかった人力車を後ろから押す人足の姿が描かれている。
やがて昭和期に入ると、土木工事で勾配を緩やかにして現在の坂道になる。それでも長い上り坂であるため、先述の歌詞にあるように、杖をついて上る高齢者にとって九段坂はなかなか大変な坂であったはずだ。
つい「高齢者」と書いてしまった。今では、その歳でそう呼ばれることはほとんどないが、昭和の中頃までは、六十路に入れば誰しも「お爺さん」「お婆さん」であった。想像ではあるが、息子が戦死した『九段の母』の老母も、おそらく60代、あるいは50代であったかもしれない。
実際に60歳を過ぎると、見た目も足取りも「高齢者」だったことは令和の現在とは隔世の感がある。大まかに言うと、昭和中期までの60代は平成の70代、さらには令和の70代後半に相当するような感覚であろうか。
ただし、もちろん例外もあって、軍隊時代の鍛錬が今も生きているような矍鑠(かくしゃく)としたご老人も、昭和の後半まで多くおられたことは付言しなければならない。蕎麦の味をぴりりと引き締める七味唐辛子のような爺さんは、怒ると怖い存在だったが、やはり昭和を語るに欠かせない人であった。
令和の母親が子に伝える「かたち」
だいぶ以前になるが、筆者が大学院生であった頃、九段下の地下鉄駅から坂上にある学校(二松学舎)へ通っていた。遅刻しないように、この坂を早足で上るときには、若くても息切れしたことを懐かしく思い出す。
靖国神社の境内は、春には桜、秋には紅葉が美しかった。冬晴れの高い空には大鳥居がよく映えた。現在の靖国神社の大鳥居は高さ25メートルで、昭和49年に再建されたものだという。
靖国神社の周辺には学校や幼稚園も多いため、九段坂は、そこへ通う学生や園児の通学路になっている。
本稿の写真を撮るため、久しぶりに靖国神社を訪れてみると、ちょうど若いお母さん方に連れられて、濃紺の制服を着た多くの園児が、にぎやかに境内を通って出てきた。
大鳥居をくぐるとき、お母さんが模範を示すと園児たちもくるりと向きを変え、400メートル離れた本殿に向かい、横一列で愛らしいお辞儀をした。
平和の大切さをかみしめる令和の時代。日本の母が子供に示す「かたち」は継承されていると感じた。
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。