安倍晋三氏が遺したもの「美しい国への提言」

2022/08/09
更新: 2022/08/09

それは、1カ月前のことであった。
米国ならばともかく、日本の日常には絶対にありえないすさまじい発砲音が2発、参院選直前の奈良の駅前に響いた。

今でも不可解な犯行

「え、まさか?」。銃声など聞いたこともない日本人の耳には、タイヤのパンク音にしか聞こえなかったのは無理もない。しかし、火薬の白煙が上がっている。

わずかに遅れて飛びかかった警察官に、発砲した犯人は取り押さえられていた。使われた凶器は、なんと「手製の銃」だったと言う。

1カ月前のその光景を思い出しても、悔しさに唇を噛みしめる。その時、路上で仰向けに倒れ血を流していたのは、選挙応援のため奈良に入っていた安倍晋三元首相であった。

テープで巻いた玩具のような「鉄砲」から飛び出た弾の一発が、安倍氏の心臓に致命傷を与えていたという。しかし、あまりの理不尽な死に、どうしても納得がいかない。

逮捕された犯人は、自身の母親がひどく損害を受けたとして、ある宗教団体の名を挙げていると伝えられる。しかし、その団体にビデオメッセージを送ったことぐらいで、何故このようなテロ行為につながるのか、まるで理解できないのだ。まさか安倍氏が、犯人の母親の損失に、直接関与したわけではあるまい。

そうした多くの不審な点から、犯行現場から逃げもせず、抵抗することなく捕まったこの犯人の証言は「はじめから予定のシナリオだった可能性がある」とも言われている。

日本の警察が、果たしてどこまで真実に迫れるか。要警護者を守れなかった大失態はもはや消すことができないが、せめてその最大の悔恨を「最強の士気」としていただきたい。

初の「戦後生まれの首相」

言うまでもなく安倍晋三氏は、多くの国民の支持を集めて、首相を2度も経験した人である。もちろん、安倍氏が政治家である以上、それに反対する立場の人もいるだろう。

本記事は、安倍氏を称賛する意図で書くつもりはない。
ただ、凶弾を胸に受け路上に倒れた安倍晋三氏が、次第に遠のく意識のなかで、最後に何を思われたのか。それを想像するのは誠に辛いが、事件後1カ月で、ちょうど新盆を迎える今こそ、どうしても考えておきたいと思ったからである。

記者の手元にあるのは自宅の書架から取った1冊の新書、安倍晋三『美しい国へ』である。

2006年7月の出版物で、この時点で安倍氏は第三次小泉内閣の官房長官を務めている。同年9月26日の臨時国会で指名され、戦後最年少で、初の戦後生まれの内閣総理大臣となる。

「闘う政治家でありたい」

16年前に購入したこの本には、まだ当時の帯がついていた。
そこには、16年ぶんだけ若い安倍氏の写真と、同書の冒頭にある「はじめに」から抜粋した、こんな言葉が載せられている。

「わたしは政治家を見るとき、こんな見方をしている。それは闘う政治家と闘わない政治家である。闘う政治家とは、ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家のことである。闘わない政治家とは、あなたのいうことは正しいと同調はするものの、けっして批判の矢面には立とうとしない政治家だ。(中略)わたしは、つねに闘う政治家でありたいと願っている」

そこで安倍氏は、「闘わない政治家」の実例として、自身が北朝鮮による拉致問題について声を上げたとき、右翼反動のレッテルを貼られるのを恐れてか、「応援しているよ」と口で言う議員は多くいたが、安倍氏とともに行動を起こす議員は少なかったことを挙げている。

「そういう政治家であってはいけない」という安倍氏の無言の遺言を、どれだけの現職の政治家が感じ取れるかは、今はまだ分からない。

同じく、同書の「はじめに」には、今の日中関係にも通じるかもしれないこんな描写を安倍氏が書いているので、引用しておこう。

「1939年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表して質問に立ったアーサー・グリーンウッド議員は、首相の答弁にたじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から『アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)』と声が飛んだ。グリーンウッドは、その声に勇気づけられて、対独開戦を政府に迫る歴史的な名演説を行ったという」

中共に「どう対峙するか?」

安倍氏は「闇雲(やみくも)に闘うのではなく、スピーク・フォー・ジャパンという国民の声に耳を澄ますことなのである」として、巻頭の「はじめに」を締めくくっている。

先に引用した部分も、もちろん「闇雲に」戦争へ向かうことを勧めるのではない。
相手がヒトラーであるという前提のもとに、英国がとるべきはナチス・ドイツへの宥和政策ではないことを示したのである。ただ、それを明らかにしたのが、与党席から野党の質問者へ飛んだ「励ましのヤジ」であったことは、なかなか英国らしくて興味深い。

繰り返すが、戦争を助長するのではもちろんない。ただ、安倍氏が挙げた例に見られる精神が「確固たる国家の気概」であるとすれば、今の中国共産党に対する日本の姿勢にも通じるのではないか。

相手をよく見ない盲目的な友好や宥和策は、自国を滅ぼす愚策に他ならない。
語弊を恐れずに言うならば、「20世紀のナチスは、21世紀の中共」なのである。いや、その悪魔性においては、中共がナチス以上であることは疑いないが。

16年前には知られなかった「臓器狩り

先述したように、安倍氏の『美しい国へ』は2006年の出版である。

2006年と言えば、中国国内で不当な迫害を受けてきた法輪功学習者から移植手術用の臓器を強制収奪する「臓器狩り」に関する最初の報告書がまとめられた年でもある。

しかし、この「臓器狩り」報告書が広く知られることにより、中国全土にアウシュビッツに勝るとも劣らぬ強制収容所が多数存在し、罪もない法輪功学習者が多数収容され「臓器狩り」の材料にされている事実が認知されるには、さらに10数年の歳月が必要であった。

その間、日本をふくむ世界各国の法輪功学習者は、自国の政府や議員、一般市民に向けて法輪功迫害の真相を必死で伝え続けた。

その甲斐あって、ようやく近年になり、「臓器狩り」を頂点とする、中国共産党による重大な人権迫害の全貌が、世に知られるようになったのである。

予測できなかった「中国経済の失速」

16年前の『美しい国へ』では、中共による人権問題には一行も言及されていない。

もちろん安倍氏は、中国の人権問題について少しは聞いたことがあったかもしれない。ただ同書のなかでは、環境汚染などには触れているが、人権問題については書かなかったのである。

それ以外の日中間の諸問題については、「両国の問題は互いにコントロールすべき」と安倍氏ならではのバランス感覚で、うまくまとめている。

例えば、小泉首相による靖国神社参拝に関連して中国各地で反日デモが頻発したことなどを踏まえ、「日本人は(中国に)そのようなことはしない」と日本および日本人の立場をきちんと説明している。

その一方で、日中の経済的関係については、「これから中国とは、経済的にはいま以上に密接な互恵関係が築かれるに違いない」として、あくまでも16年前の安倍氏の見解であるが、対中経済の行方をかなり「楽観的」にとらえていたように見える。

周知のように、その後の中国経済は、日本が望むようには全くならなかった。

もちろん、中共ウイルス(新型コロナウイルス)によるパンデミックが起き、都市機能が一時的に麻痺したことも経済失速の原因の一つであろう。しかしそれよりも、中国経済はウイルス以前の原因(例えば、腐敗や社会道徳の崩壊)により、すでに「瀕死」の状態になっていたのである。

そのため、今の中国の若者は、もはや従来の上昇志向さえ捨てて「躺平(寝そべり主義)」に徹しようとする。若者が頽廃的になることは、もはや国家として、ウイルス感染以上の深刻な病状であるかも知れない。

台湾を日本に近づけた偉業

そして16年後の現在。
中国(つまり中国共産党)は、不敵な笑みを浮かべ、片手で「日中友好50周年」の握手を求めながら、日本の領土領海に連日にわたって工作船を入れ、その状態を既成事実化しようとする。

日本は、よほど注意しなければならない。中共は、日本を手玉にとるために、今後も「友好」を最大限に利用してくるだろう。安倍氏は、そんな中国を苦々しく思ってきたはずだ。

それゆえ安倍氏は、自由と民主主義という共通の価値観をもつ国である台湾を、「日本にとって永遠の友人である」と明確に位置づけた。「台湾を日本に近づけた」という意味では、安倍晋三氏でなければなし得なかった偉業と言えよう。

多くの日本国民もそれに賛同した。
そして今や、日本は台湾人の最も好きな国であるという、まことに麗しく理想的な「互恵関係」が生まれたのである。

「中共に対する態度を変える」のが正解

北京の中国共産党は、頭から湯気が立つほど怒り狂っただろう。
つまり安倍氏は、16年前に自著に書いた考えの一部を改め、中共に対する態度を変えたのである。

安倍晋三氏は、親台の人であっても、決して反中の人ではない。

『美しい国へ』にも書かれているように、「中国の留学生たちには、ほんとうの日本をもっと知ってもらいたい。ほんとうの日本を知る中国の学生が増えれば、日本にたいする理解も格段に深まるはずだからだ」と言う。中国人にぜひ聞いてほしいが、これは安倍氏の心からの願いであった。

10数年前のある時期、中国の各都市では、まるで人間が悪魔になったかのような狂乱の反日デモが起き、「中国人が経営する日本料理店」などが暴徒によってすさまじい破壊行為を受けた。

彼らが手にしていたプラカードには、安倍晋三氏の顔がヒトラーに似せて描かれていた。

安倍氏は、それを知っていただろう。その上で、「中国の留学生たちには、ほんとうの日本をもっと知ってもらいたい」という心からの願いを、書中に記したのである。

この安倍晋三『美しい国へ』は外国語に翻訳され、米中台韓の各国でも出版されているという。安倍氏が遺したメッセージが、中共に邪魔されず、中国の若者へそのまま伝わることを願うばかりである。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。