【古典の味わい】貞観政要 16

2022/06/17
更新: 2022/06/17

貞観11年のこと。魏徴太宗に文書を上奏して申し上げた。

「臣、魏徴謹んで申し上げます。私が、古よりの数々の帝王について考察いたしましたところ、生涯を全うした者は少なく、国家を敗亡させた者は数多くいます。その理由は何でありましょうか。それは国家を繫栄させる方法が間違っていたからです。その最も戒めとなる実例は、本朝のすぐ前にございます」

「前王朝である(ずい)は、強大な兵力をもって天下を統一し、その威風は万里も離れた外国にまで及びました。しかし、わずか30数年で滅びたのは、隋の第2代である煬帝(ようだい)が、わざと暴虐政治をおこなって意図的に滅亡したのではございません。彼は、その国力の富強なるを頼みとし、後に憂事が生じることを全く考慮せず、天下の万民を労役に駆り立て、自身の欲望を満たすために費やしたのです」

「国中の美女を集め、遠方の珍物を際限なく求めて、壮麗な宮殿や高楼を増築しました。また、外征に明け暮れたため、人民は兵役により甚だしく疲弊しました。臣下の者たちも、互いに猜疑し合っていました。邪悪な輩だけが栄達し、真に忠義あるものは皆殺されてしまったのです。そのため、上下は互いに騙し合い、君臣間の意志が全く通じなくなったのです」

「ついに尊い天子の身であるはずの煬帝は、部下に殺されてしいました。それゆえ、隋はわずか2代で滅んだのです。隋朝の子孫は絶え、天下の笑いものとなったのは、誠に痛ましい限りでございます」

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魏徴が太宗に奉じた上疏文は、この後もまだ続きます。以下の部分は次稿に回します。

前王朝である隋の短命ぶりが、当代王朝であるにとって最大の反面教師であることを如実に示す一節です。この一書『貞観政要』を貫く主題が、まさに「天子自身の戒め」にあるとすれば、隋の煬帝は暗愚な暴君の典型であり、太宗の反面教師と言えるでしょう。

いま思わず、ここに「反面教師」と書いてしまいました。
日本語にもなっているこの言葉の由来は現代中国語の「反面教員」であり、しかも、それを初めて口にしたのは20世紀最大の暴君・毛沢東です。実は、毛には恐るべき意図があってそう言ったのですが、歴史のアイロニーの深さには驚くばかりです。

有名な故事に「苛政(残酷な政治)は虎よりも猛なり」とあります。
儒教の五経の一つである『礼記(らいき)』の一節ですが、孔子が泰山のふもとの村を通りかかったところ、一人の女性が墓の前で泣いていました。訳を尋ねると、女性の舅も夫も子供も、みな虎に襲われて死んでしまったとのこと。

孔子が「ならば、虎のいない土地へ行けば良いではないか」と言うと、女性はこの言葉「苛政猛於虎也」を答えます。まことに気の毒な女性ですが、その言葉を裏返せば「この土地は、恐ろしい政治がないだけ、まだましです」という肯定的な意味にもなります。

唐の貞観年間、太宗の勅命によって五経に注釈を加えた『五経正義』180巻が選述されました。編纂の中心となったのは、唐を代表する大学者の孔頴達(くようだつ)です。

孔頴達は、魏徴と同じく、太宗に対して憚ることなく諫言する人物でした。太宗は、そのような孔頴達を信任し、上述のような栄誉ある使命を与えます。

太宗の偉大さを改めて思うとともに、千数百年を隔てた現代中国の為政者が、煬帝はおろか、中国人民にとって虎にもまさる猛獣であることは言うまでもありません。

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。