一人っ子政策がもたらした悲劇 妊娠後期の強制中絶

2017/09/18
更新: 2017/09/18

1979年から2015年まで、実に36年もの間実施されてきた中国の一人っ子政策。厳格な人口抑制策は、現代中国に高齢化の加速や男女比の割合の偏り、無戸籍者(いわゆる黒孩子)の発生など、数多くの問題をもたらした。だが、悲劇は政策の開始直後、すでに始まっていた。一人っ子政策は、無理やり中絶させられた膨大な数の母親と、それにともない闇に葬られた数え切れないほどの嬰児の存在によって成り立っている。以下の内容は在米中国民主運動活動家の楊建利氏が書き下ろしたもの。

1991年、山東省聊城地区の冠県と莘県の両県は、ほぼ同時期、その年の出生率を下げるために「100日間出産ゼロ運動」を展開していた。推進したのは当時の冠県県委書記・曽昭起と、莘県県委書記・白志剛。両県ではこの年の5月1日から8月10日の間、妊婦の妊娠回数に関わらず、全ての出産を「違法」であると規定し、いかなる理由があろうとも出産を禁ずると発表した。この年の干支が羊だったことから、この政策はこの地の人々から「子羊殺し」と呼ばれるようになった。

発端は、計画出産政策に対する達成率が省内で最下位だったため、省の全体会議で冠県県委が名指しで警告されたことである。4月26日に、曽昭起が冠県委拡大会議を召集し、「一年以内に最下位の汚名を返上するため、5月1日から8月10日まで、県内で出産ゼロを達成すること」を幹部たちに求めた。

その後、曽昭起は県内から集まった22の郷鎮党委書記の名前を読みあげ、一人一人に意見を表明するよう迫った。「5月1日から8月10日までの出産をゼロにする」とはつまり、この間に出産予定の、妊娠後期の妊婦を堕胎させるということだ。最初に名前を呼ばれた書記二人は、決められた期間内にこの任務を完了することはできないと答えた。すると曽昭起は「誰かいないか!手錠をかけて連れていけ!」と怒鳴りあげた。そしてつづけざまに「この二人を半月間収監しろ。こいつらが違法な行為を行っていないか、中紀委検察院に調査させろ!」と言い放った。

このときに曽昭起が放った一言は、今でも冠県の人々の間で語り草となっている。「この100日間で子供が一人でも生まれたら、俺はその子を「親父」と呼んであげる」(注)。曽昭起が手段を選ばず、なにがなんでも「100日間ゼロ出産」を実現するという決心の固さがうかがえる。

 

たちまち、冠県のいたるところに、中絶を奨励するスローガンの書かれた横断幕が掲げられた。「子孫を絶えさせても、党を安心させねばならない」「(自殺したければ)首つりなら縄を、服毒なら毒薬を差し上げよう」「流産させてでも、生むことは許されない」「政策を徹底的に実施し、決して子どもを増やしてはならない」

そして県の病院からデパートまで続く道に、テントがびっしりと設置された。これらは、全県挙げての産児制限計画の対象となった妊婦を堕胎させるために設けられた、臨時の病室だった。だがそれでも、県内の病院だけでは中絶手術をさばききれなかったため、隣県の病院へもたくさんの妊婦が送られた。

短い期間に膨大な数の中絶を行ったため、胎児の死体は、県の病院のボイラー室脇にあったいくつかの深井戸に集中的に投棄された。当時を知る住民らによると、数年経っても、井戸から腐臭が漂っていたという。それだけでなく、野良犬がどこからか赤ん坊の死体をくわえてきて、大通りを歩いていることも珍しくなかった。

この時に中絶を強要されたのは、妊娠7カ月から臨月の妊婦だった。無理やり陣痛を誘発されて生まれてきた子どものうち、まだ生きていた赤ん坊は、産声を上げるや否や医者や看護婦によって殺された。ある母親はわが子が殺されるさまを目の当たりにして、ショックのあまり発狂してしまった。

長年不妊に悩んだ末、やっと子宝に恵まれたという40歳間際の妊婦ですら、「100日間出産ゼロ運動」からは逃れられなかった。この妊婦は無理やり中絶させられたのち、二度と身ごもることはなかった。

こうして闇に葬り去られた何万もの子羊たちの魂は、曽昭起と白志剛の出世への花道を開いた。100日間出産ゼロ運動の翌年、それまでぱっとしない仕事ばかりを手がけていた曽昭起は聊城地委副書記に抜擢されたのだ。曽はこれを踏み台にして官界を駆け上がり、山東省経貿委副主任、山東省国資委主任の地位に就いた。だが人々が最も驚いたのは、山東省国資委主任を退任した後、何万もの胎児の命を奪った政策を出した張本人が、山東省の次世代を見守る弁公室の副主任に任じられたことだった。

ある郷幹部の告白

 

「100日間出産ゼロ運動の推進中、私は郷の総責任者を務めていました。各村では、村の党支部書記が責任を負っていて、まずは自分の家族から、そして自分の親戚へとこの運動を広げていきました。どんな理由があろうとも、妊婦はすべて堕胎させました。以前に交付された出産許可証も一律無効とされました。「生まれてしまった場合はどうしたら?」この問いに私は「生まれてきたら絞め殺せ!」と答えました。

計画出産法律執行チームのメンバーは全員が警察服を着用し、権威を辺りに振りまいていました。待遇も一人1日10元が支給され素晴らしかった。たった10元と思わないでください。当時、郷長や郷の党書記の月収は多くても130元ほどでした。そのうえ、彼らが妊婦を見つけて通報した場合、奨励金の5%のマージンがもらえました。つまり通報1回につき、100元あまりが手に入ったのです。地位的にも恵まれた待遇を受けていました。積極的に仕事をすれば、優先的に入党できましたし、郷幹部にも優先的に抜擢されるといった具合です。

堕胎を拒む妊婦の住む家の強制撤去や、妊婦の拘束といった大きな任務を行う場合、40キロほど離れた地域から人を確保していました。よそ者は地域の人間を誰も知りませんから、情に流されることもなく、残酷なことでも平気でやってのけるからです。

彼らは妊婦の腹をしこたま蹴り上げ、堕胎を拒む妊婦が病院に行く手間を省かせました。腹を蹴られ出血したら、妊娠を継続することはほぼ望めません。急いで病院に駆け込んだとしても、陣痛促進剤を注射されて終わりです。これは上から指示された政治的任務だから、同情したり逆らったりしてはいけないのです。

出産を控えた妊婦のいる多くの家庭が逃げ出しましたが、その後彼らの家は取り壊され、残された家族や親戚は捕まりました。この運動期間中、家族が出産したために捉えられた村民たちが、トラクターで郷鎮内の道を引き回されているのがよく見られました。彼らはみな、体を縄で縛りあげられ、首には罪状の書かれた看板が下げられていました。

季節はちょうどトウモロコシが大きくなるころだったので、ある妊婦はやむなくトウモロコシ畑の真ん中で出産し、それから掘っ立て小屋に身を隠して、ようやくこの惨事から逃れることができたと言います。

私は出産間近の妊婦が、豚を運ぶための籠に入れられて病院に運び込まれるのを見たことがありますが、そのときの妊婦の悲痛な叫び声は、今もはっきりと耳にこびりついています。また、病院の近くの池に嬰児の死骸がたくさん浮かんでいたことや、そのあたりにはまだ生きている赤ん坊さえいたことをこの目で見ました。強制流産から逃げ続ける妊婦のいる家庭は、罰として家畜の豚を取り上げられ、家も取り壊されました。その結果、住む場所もなく路上生活を余儀なくされた人々もいました。

私はいつか、人道に反する罪を問う法廷に、証人として出廷できればと願っています。そしていつかきっと、冠県と莘県に「100日間出産ゼロ」という虐殺事件の慰霊碑が建立される日が来ると信じています。

:この一文は中国的な表現である。子は父親に対して尊敬し服従しなければならない上下関係にあるため、血縁関係のない相手を「父親」と呼ぶことは、相手がすごい、こちらは完全に負けだと認めることを意味する。普通ならこれは絶対になってほしくない状況だから、あらゆる手を使いそうならないように阻止するという固い決意が表わされる。

(翻訳編集・島津彰浩)

 

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。