異例な言動相次ぐ 温家宝首相の真意は?

2010/05/10
更新: 2010/05/10

【大紀元日本5月10日】5月4日、1919年の「五・四運動」に由来する中国の青年節(青年の日)に、温家宝首相は北京大学を訪れ、学生たちと懇談した。周りに座っている格好良く、賛美の言葉ばかりを発する青年たちに、「君たちは学校側から言われてここに来たのでしょう」とズバリ指摘、また、学校管理者に、一般の学生たちにビルの中から出ないように命じたでしょうと非難した。

この情報は、もちろん、政府機関紙が報道したニュースではなく、その場にいた学生が北京大学の掲示板に書き込んだ情報です。このような共産党体制から逸脱する言動は、最近しばしば温家宝首相に見られる。万博開幕一週間目の入場者数の激減も、温首相に関連すると言われている。

公費による万博参観への食い止め

上海万博開幕後、最大の変化は、入場者数の激減である。上海万博主催側の発表によると、5月8日午後8時までの統計では、上海万博の一日平均入場者数は13・6万人で、開幕当日の入場者数の68%である。これまで、万博主催側は入場者数を、万博史上最多の延べ7千万人と見込んでいたが、一日平均入場者数が13・6万人であれば、上海万博は延べわずか2千5百万人しか迎えることができないことになる。

情報筋によると、入場者が激減した原因の一つとして、温首相の態度表明が関わっているという。

5月4日、上海万博事務局によれば、入場券の販売は上々で、ゴールデンウェークの3日間、1日平均35万枚を売ったというが、3日後になると、入場券を購入した人のうち、半数近くの人が来場しなかったことが明らかになった。

関係者によると、5月1日の開会前に、中国各省・市および企業の多くは公費で上海万博を参観する計画を立てたが、これに反対する意見があがった。この意見に対し、温首相は「わたしも反対だ」と態度表明したという。そのため、すでに費用を支払い、予約した多くの省・市の関係部門までも行くのを止めた。

この現象を受けて、万博事務局の官員は、「もし、国務院のこの規定がもう少し早く出ていたら、われわれはこれほど狼狽することはなかったはずだ。多くの人は、なかなか入場券を容易く手に入れられなかった。五月の入場券の45%が他の省・市に予約されていたからだ。しかし、今になって、彼らはもう来られなくなってしまい、向こうもこちらも大きな損害を受けた」と不満をあからさまにした。

上海市は万博主催を理由に、温首相が策定した中央の経済調整計画を拒否し続け、温首相は何回も上海市の特殊化を批評したという。温首相と上海組との対立は一日二日のことではなく、さまざまな矛盾が絡まっているようである。

上海万博開会式に異例の欠席

温首相の異例な言動はそれだけではなかった。万博開会式自体にも、温首相は欠席した。

4月30日夜、上海万博の開会式が盛大に行われた。引退しても機会があればきまってその存在感を示してきた江沢民前国家主席が姿を現さなかった。そして、温首相も欠席した。江沢民の欠席より、温首相の欠席はきわめて異例なことであり、中共の新しい政治動向として中国国内外から高く注目されている。

上海万博は、2008年の「北京五輪」と2009年の「中華人民共和国樹立60周年記念式典」以来の挙国・挙党の最重要な一大事であるだけに、温首相の欠席は、開会式の最大の謎となり、よってさまざまな伝聞が飛び交い、いろいろな憶測があがった。

二度目の地震災害地入り、二つの声

新華社によると、5月1日午後、温首相は回良玉副首相とともに、ふたたび地震災害地の青海省玉樹を視察した。前回の視察は、地震発生後二日目の4月16日であった。

災害地入りした温首相は、地震の被害者たちと救援活動を行っている医療関係者を見舞い、また災害後の立て直しなどを調査した後、地震災害による救援活動および地震後の立て直しについて具体的に指示した。

国境なき記者団(RSF)によると、中国共産党の中宣部(中央宣伝部)は4月23日、中国の各メディアに公達を下し、玉樹地震の報道の尺度を具体的に指示した。たとえば、「科学的専門用語で玉樹地震を報道する。中国の地震観測予報部門を批評してはならない。地元のチベット族僧侶たちの救援活動を多く報道してはならない。中央TVで行われている災害救援の募金活動をより多く報道する」などである。

上海万博開会後に、青海玉樹地震に関する報道を減らし、上海万博に関する報道を増やすよう命令した。

玉樹地区には寺院が多く、84の寺院が被害を受けた。温首相はチベット族の被害者のほか、地震による被害を受けた600年の歴史をもつ寺院・結古寺を視察し、文化財の被害状況などを聞いたほか、「災害を前にして、多くの僧侶たちは国を愛し、仏教を愛し、故郷を愛する精神を発揚し、下敷になっている人たちを救援し、そして被害者たちを落ち着かせ慰め、さらには社会秩序を維持するために多くの仕事をした」と高く評価した。

言うまでもないが、温首相のこの発言は、江沢民の牙城である中宣部(中国共産党中央宣伝部)の指示と相反するものであった。

万博開会式欠席の理由

温首相の上海万博開会式欠席について、さまざまな風説と憶測が飛び交っていた。

先ず、病弱説。開会式が行われた直後に、病弱説がネットに上がった。最初の地震災害地視察により、温首相はかなり疲労していたし、当時高山病にもかかって他の人の介助なしでは歩けない状態だった、という目撃記者の証言が挙げられた。それに基づいて、北京に帰った後、姿をほとんど現わさなかったことから、温首相はおそらく体調不良、もしかして倒れたのかもしれないと憶測された。

また、胡錦涛の平衡説。つまり、胡錦涛は温首相の不参加をもって、江沢民の万博開会式への参加を阻止したという。そして、常務委員会は地震災害地のことを配慮し、温首相などが開会式に参加せず、かわりに災害地視察すると決定した、という説もある。

もう一つは、温首相の自己決定説。最新情報によると、上海万博開会式の原案では、江沢民と朱鎔基前総理も開会式に参加することになっていたが、温首相はこれに異議を唱え、そして自らも上海万博の開会式へ足を運ばず、かわりに地震災害地の玉樹をふたたび視察することにした。

温首相の行動は個人意志なのか

上記の諸風説の中で、病弱説は翌日の温首相の再登場により否定されたが、後の二つはどうなるだろう。

江沢民のパフォーマンスを嫌い、ずっとそのけん制を受けている胡錦涛は、温首相の不参加を条件に江沢民の出場を阻止した可能性もあるし、地震災害地への配慮の可能性も否定できない。しかし、温首相の自己決定説に比べれば、その説得力はやや弱い。

上海万博と地震被害地をめぐる温首相の一連の行動を考察すれば明らかなように、これらは、温首相の民を重んじ浪費に反対する一貫した姿勢であり、その中に偶然性や不合理などは見えない。

温首相は、「われわれ宣伝部門(上海万博を大々的に報道し、玉樹地震災害の報道を制限することを指している)よりネットユーザーを選んだ」と、中国共産党宣伝部門の官員から叱咤されたが、このことからも、温首相の選択は個人意志だったと反証される。

そして、温首相の万博開会式不参加に対し、政治局の中で、少なくとも二人の高官が、大局を無視し上海万博のめでたい雰囲気を損ない、地震災害地入りで、民に親しむパフォーマンスをした、と非難したという。

あらゆる事象を綜合して判断すれば、上海万博開会式への不参加は、温首相個人の決定だったというのがより信憑性が高いと言える。

温首相の性格および中共の党規によれば、これは彼の勝手な行動というより、江沢民勢力を打撃することを最大公約数とする胡錦涛は、温首相の意志を十分に尊重したうえで、常務委員会の了承を得た組織的な決定であったと考えるほうがより順当だと思われる。そうすれば組織原則の違反にならずに、江沢民の登場をも阻止できる、いわば一石二鳥の上策だからである。温首相のほかに、政治局常務委員の呉邦国と賈慶林も欠席したのも、一つの傍証となるであろう。

しかし、それにしても、風雲急の今、温首相の一連の言行はきわめて異例なことである。もし、これが温首相の個人意志による勝手な行動であったならば、これまで小心翼々としながらも勤勉だった温首相のイメージを大きく塗り替えることになり、温首相は生まれ変わったと言っても過言ではない。たとえ、開会式の欠席が組織による行動であっても、以上のような異例な言行により、温首相はすでに独自のカラーをはっきりと打ち出したと言える。

4月15日は、89年の学生民主運動のきっかけとなった胡耀邦前総書記の21回目の命日。中国共産党機関誌『人民日報』は2面トップ記事として、温首相が胡耀邦氏を追悼する文「興義に再来し、耀邦を追憶」を発表した。その中で、温首相は89年4月、重病中の胡耀邦氏にずっと付き添った日々を追憶、胡氏の教えから責任を怠ることができないと感じている心境を語る。

胡耀邦前総書記は中国の改革開放が始まって以来、多くの冤罪を晴らした最初の人物である。1987年、自由化の責任を咎められ失脚し、89年に逝去したことが、89年6月4日の天安門事件を引き起こしたきっかけとなった。中国共産党内部で、胡耀邦氏は常に争議の多い人物とされているだけに、温首相が『人民日報』で本文を発表したことは、きわめて異例なことで、各大手サイトは大々的に本文を転載している。

中国語に「借古諷今」という四字熟語がある。歴史をかりで現在の状況を比喩する。温首相は、国家トップでありながら共産党体制に相容れられなかった胡耀邦前総書記を借りて何かを語りたいのか。いずれにせよ、中国の権力高層に激しい対立が起きていることは分かり、中国社会はすでに歴史的な転換点に来ている雰囲気を感じ取ることができる。

(文・小林)