連載・ドキュメンタリー 「未来へ伝えたくて」(一)

2009/04/27
更新: 2009/04/27

【大紀元日本4月25日】10年前の4月25日、中南海(中国共産党本部の所在地)に一万もの民衆が集結し、静かに煉功する姿が見られた。人々はこのような平和的な方法で憲法が保障する信仰の自由を訴えたのだ。共産党政権樹立以来数十年にわたり、数々の政治運動が繰り広げられ、虐げられてきた思想や信条の自由。この4・25事件は、人々が平和的に声を上げた画期的な出来事として国際社会の注目を集め、法輪功の名が世界にとどろくきっかけとなった。

悠久の歴史を誇る中国文化は、数十年の間に共産党によって叩きのめされた。一方、その伝統文化に根ざした法輪功はわずか数年で1億もの愛好者を集めた。そして、十年間の厳しい弾圧を経た今でも、学習者は4000万にも上るという。

この法輪功とは一体何なのか。また、法輪功学習者は、なぜ危険を覚悟してまで中南海で自由を求めたのか。更に、この共産党と法輪功の攻防は、偶然なのか、それとも歴史の必然なのか。

今年は4・25中南海事件発生から10年の節目の年である。これを記念し、法輪功の真実を収録したドキュメンタリー『未来へ伝えたくて』を公開する。今回はその第1回『80年代の気功ブーム』。(北米の中国語テレビ局『放光明』が製作、吹き替えと字幕は大紀元日本語グループが担当。字幕と吹き替え部分は、都合上抄訳になっており、完全な翻訳はビデオ映像の下に付記した)。

【ナレーション】

1979年3月11日、「四川日報」で張乃明(ヅァン・ナイミン)氏等が発表した「大足県、耳で字を識別する子供」の記事を掲載した。

その発表後1か月間、「安徽科技報」、「北京科技報」等新聞でも、特異功能を持つ子供の記事が発表された。

一つの石で、多くの小波を引き起こしたように、これらの発表によって、人々は中国のある伝統健康トレーニング「気功」に注目し始めた。

気功は我が国では悠久の歴史を持っている。

華陀の「五禽戯(ウチンシー)」から、張三豊(ヅァ・サンフォン)の「太極拳」まで、大昔から伝わった八卦、周易、黄帝内経から、仏道両家各派まで、中華五千年の文明歴史の中で、これらの知恵が光り輝いていた。

しかし、近代になって、気功は徐々に人気がなくなった。かつて強大な帝国も屈辱的な運命を辿らざるを得なかった。中国人は中国の運命を救い、外敵の侵略に抵抗しようと費やした努力の中で、西洋技術の導入を富国強兵の(源)元とした。徐々に、中華古来の奥深い精妙な文明の真の内包を理解できる人も、ますます少なくなり、逆に西洋の実証科学思想は、人々を主導するものとなった。

特に、10年間の文化大革命では、すべての中国の伝統、古来のものは「四旧」及び「封建迷信」だと見なされ批判されてから、人々は更に古来の伝統への探求を止めた。多くの優秀な伝統文化の精髄の伝承も次第に消えて行ったのである。

しかし、本当に人々の心の中から数千年の古来文化を徹底的に消すことは、容易ではない。1970年代の後半に特異功能現象が現れた時に、人々はたちまち気功に対して強い興味を示した。

*著名作家・鄭義(ゼン・イ)さんが、本人自ら体験した特異功能者とのやり取りを紹介してくれた。

【インタビュー・鄭義(作家)】

「当代」雑誌の編集部の部屋で、編集者全員が部屋に集まっていた。恐らく7~8人がいて、全員が社会的地位のある人たちで、その中の1人の編集者は、引き出しから1枚の名刺を取り出した。私に名刺にサインをして、口の中に入れて噛み砕くようにと言われた。その通りに、名刺をぐちゃぐちゃに噛み砕いてパルプにした。また、噛んでいる時に少し飲みこんでしまった。とにかく、噛み砕いてぐちゃぐちゃになった名刺の紙屑を、編集者に渡した。編集者はボール状に小さくなった紙屑を片手の手のひらに置き、もう片方の手はその紙屑の上から被せるようし、前後に動かしたら「ピーン」と1枚の名刺が(飛び出した)弾き出た。その名刺に何と私のサインが書かれた元の名刺である。

一般のマジックは、ここまですることはとても難しいでしょう。何故なら、先ずは、私は社会的地位のある者で、彼らのグループのメンバーではないし、私自身がその名刺を噛み砕いて紙パルプのようにしたのに、何故、私のサインがある元の名刺に戻せたのか、とても唯論的なものでは説明できないからだ。

【ナレーション】

このような唯論主義的な世界観では、説明できない特異功能現象が現れると、すぐ様にマルクス・レーニン主義および無神論者を宣伝し、人々の思想を統制する中国共産党(中共)上層部の注意を引き起こした。

「耳で字を識別する子供」の報道が発表されて、2か月も経たない内に、1979年5月5日および18日に、「人民日報」はそれに対して、科学常識を背き、荒唐無稽であり、中国人の顔が丸潰れだと強く批判した。それと同時期に、中共のある中央部門は「耳で字を識別する子供」の現象は、科学に相反しており、封建迷信の復活だとの文書を下達した。のち、「四川日報」は自己批判を行い、当時の四川省委書記も自己反省に迫られた。

しかし、科学界の権威者である銭学森氏を代表する一部の科学者らは、特異功能および未知領域である気功の探求を支持し、科学発展の角度から「人体科学」の概念を提唱した。銭氏は、「気功、漢方理論および人体特異功能は、人体科学の最も根本的な道理が内包され蓄えられている」とし、「科学革命へ導き、人間が客観世界を認識することへの飛躍に繋がるものである」との見解を示した。

1980年2月、「自然雑誌」編集部が主催する第1回人体特異功能討論会は、上海で開催された。討論会は特異功能者たちを招き、会場で功能の測定試験を行った。当時、中共中央主席・胡耀邦も代表者を派遣し会場での測定に参加した。

【インタビュー・邵暁東(当時黒竜江省気功科学研究会副会長)】

胡耀邦は秘書を派遣し、自ら書いた文字のサンプルをいくつか持って行かせた。会場の特異功能者は、封筒を開封しないで中に入っている文字が認識出来れば、会議は続行できるが、文字を認識することが出来なければ又は、開封してしまえば、中央側はこの活動を中止させる。大体そういう意味合いで秘書を会場まで派遣した。

当時は、全国から特に優れた特異功能者たちを討論会に招いたことから、文字が書いてある紙の入れ物が封をしてあっても読むことができ、良い結果を出した。秘書は特異功能者たちが読みあげた文字を早速、胡耀邦に電話で伝えた。文字は確かに胡耀邦が書いた内容と一致したため、胡耀邦は、秘書をサンプルとともに北京に呼び戻した。秘書は、北京に持ち帰りサンプルを胡耀邦に渡した。胡耀邦は全てのサンプルをチェックし、自ら書いた文字の紙を入れて封をしたままのものであり、開封されていないことを確認した。

【ナレーション】

専門家らは、今回の討論会は1979年に「耳で文字を識別する」報道に対する論争を解いたと見なした。また、今回の討論会を機に、中国では人体特異功能の研究が新しい段階に突入した。

しかし、一部の反対の声も相次いだ。科学実験が実証した結果を無視し、単純に哲学の角度から人体特異功能研究に対してひどく批判した。彼らは「科学を取るか、それとも偽科学を取るか」、「唯論主義、マルクス主義哲学を取るか、それとも唯心論主義やマルクス主義と根本的に対立する哲学を取るか」の問題で騒ぎたてた。

この時の中国は、ちょうどう10年間の文化大革命が終了した直後で、全国にわたり「実践が真理を検証する唯一の基準」について熱く議論する時期で、文学界、知識界、科学技術界では、広々とした春が蘇る雰囲気の中にあった。10年間人々を毒する極左思想をたっぷり受けた後に、新たに自己を見直し、これまでに歩んできた道を顧みるようにしていることから、客観的に実際の態度で、気功および特異功能現象を受け入れることができた。

【インタビュー・鄭義】

過去では特異功能を人に見せなかったから、妖怪や化け物だと言っても人々は信じる。しかし、気功は確かに良い効果がある。特に病気を持っている人は、気功を習ったら、とても気持ちが良くて、病院で検査した数値も確かに変化して良くなったからだ。これは検査で実証できるものだ。

【ナレーション】

不思議な特異功能を自ら目撃したある中央指導者は、胡耀邦に宛てた書簡で、「科学発展の歴史を見ても、当初ニコラウス・コペルニクスが唱えた地動説、ガリレオ・ガリレイが唱えた地球回転説、アルベルト・アインシュタインが唱えた相対論、トーマス・ハント・モーガンが唱えた染色体説、すべてが世間から厳しく批判された。新説提唱者は、その為に命を失ってしまったことさえあった」や「旧来の理論が解釈できない現象は、往々にして科学躍進の前触れである」と記した。

それから暫く経って、胡耀邦は中共中央宣伝部に対して、気功および特異功能に対して宣伝しない・論争しない・批判しないとの指示を下達した。同時に、少人数に限るがそれについての研究を許した。1982年4月20日、中央宣伝部はこの通知を各部へ下達した。これがかの有名な「三不(サンブ)政策」である。

【映画少林寺についてのナレーション】

これが1980年代で流行した映画である。映画の中にある巧みで完璧な武芸と不思議な物語は、当時の青少年たちに思いを馳せ大いに見聞を広めた。

【インタビュー・李静寧】

私が、中学生の時に映画「少林寺」が上演されてから、とても興味を持った。それによって、一気に中華武術文化に対する理解が深まった。当時、友人たちはその映画を何回見たかとよく競い合った。1回だけ見てはとても足りないのだ。私は何回も見た。私はそれから、気功や武術に関する書物や雑誌を全部購読した。

【インタビュー・賀賓】

当時、学校にある気功協会は沢山の気功師を招き、学校の中で報告会や実演を行った。彼らは主に文化の角度から、例えば、漢方、経絡、周易、八卦、予見、超常現象などについて話した。西洋のものと全く異なった角度から、宇宙観、人生観、生命観を語った。その時私は、中国の古代文化に強く興味を持った。

【ナレーション】

多くの年配者にとって、気功に惹かれたのは、その不思議な病気治療効果である。特に現代医学では治療できない難病を治してくれる気功は、苦痛をなめ尽くした難病患者にとって、まさに溺れる藁にもすがるものであった。

【インタビュー・張少恵】

私は文化大革命の時に身心共にひどくダメージを受けた。文化大革命が終わり、1980年から私は病に倒れた。私は、病院で勤務していたので、医者に診てもらうことはわりと簡単にできる。しかし、沢山の治療を受けても殆ど効果はなかった。当時、私は自分自身に対しては全ての希望を失った。

【インタビュー・李さん】

当時は、気功が非常に盛んでおり、公園やオフィスでは気功の話題でいっぱいだった。

【インタビュー・張少恵】

私はテレビでの報道で、「彼らは気功を習っている者で、その中の1人は肝臓癌患者で、医者からは余命宣告をされていたが、気功を習ってから既に3年が経った。しかし、未だに健在であり、体はますます健康になった」と聞こえた。

当時私は、「肝臓癌患者でさえ病気が治ったのに、自分の病気は癌であるかどうかも確認していないし、仮に癌であっても、少なくともその患者よりはましだ」と思った。これも機縁であるし、私は、この世の中に自分の命を救い、病気を治してくれる薬もないし、唯一救ってくれるものは気功しかないと思った。その時、私は気功を習いたい一念が生じた。

【ナレーション】

このように天の時、地の利、人の和がうまくかみ合ったことから、中華民族にとって宝である気功は各地に広まり、全国的規模の気功ムーブになった。

一体気功は何でしょう。何故ここまで不思議な力がるのか?誰も本当に解釈し分析したことはない。多くの人は表面的なことでしか認識していない。気功は病気治療と健康保持に不思議な効果があり、一部の気功師も特異功能を持っていることから、気功はさらに神秘的なベールに包まれた。

【インタビュー・李静寧】

その後、檗谷(ビグー)、自発功能、体感功能等多くの現象が現れた。私自身も体感したことがあった。でも説明はできない。

【インタビュー・葛敏】

私は、気功師たちが一体どのように病気を治したかを知りたいので、個人的にある気功師に聞いてみたら、その気功師は「実は、この治療とは(病気)を掴まえて、足を床の上から強く踏みた叩き、大きい声で治ったと叫べば、治るのだ」と話し、「自分が治せると思えば病気治療ができるのだ」と話した。結局、何の根拠理論もなくて、その気功師自身もよく分からないのだ。

【李有甫(1982年中国全国武術大会チャンピョン、中国人体科学研究センター元研究員】

気功が盛んになった過程で、気功は一体何であるか、その背後に何があるのかについて、人々は常に考えている。気功を練習して、健康保持の他に何があるのか、何か知りたいと考えている内に、「煉(練習)」、「普及」、「向上する」、「科学の実験方法」、「科学での実証」などが分かったが、これらのことは結局気功を説明できない。科学の手段はあくまでその過程を実証することに過ぎないし、本質の規律を説明できないことから、人々は気功を理解しようとさらに考え続けたのである。気功ブームは人々に考えさせることになる。

【ナレーション】

一部の人は病気治療を求め、功能や財を得る心理を利用して、各種名目で法螺を吹いたり、はったりを聞かせたりして人を騙した行為で、元々疑わしく人を惑わすような気功は、なお奇怪なものと見なされ、善いものも悪いものも入り混じってしまった。

【インタビュー・賀賓】

当時は流行っていた「治法功(チーファーゴン)」とは、人がもうろうの状態になってから、気功師の誘導下で患者は床で転がったりして、おばあちゃんまで踊れるほどになる。そして、痛みのあるところを気功師に教え、気功師はその箇所を強く叩くものだ。めちゃくちゃなものを教える。

【インタビュー・李静寧】

彼ら(気功師)は、まず気功の動作を教えてから、それから気功の「功理」を教えて、信息を受けるなどをする。場合によって、水を持参させられ、気功師がその水に向かって、気を発してから、「信息の水」ができるわけだ。

【インタビュー・賀賓】

そのあと、気功で病気治療も流行った。私も気功教室に通った。そこで、気功師は気を排出したり、下ろしたり補ったりすることを教える。最も印象に残ったのは、「神仙一把抓」というものだった。当時、私は四川省の実家に帰った時も、家族の皆に対してもやってみたが、何の効果もなかった。とにかく、当時は非常に熱心にこのようなことを行っていた。ある場合では効果があるが、自分で学ぼうとすると何も得られない。

【インタビュー・李有甫】

一部の人は、世間で流行っているものに非常に敏感で、すぐに金儲けの頭が働くのである。人々の興味と熱心さに付け込む偽気功師が、世の中に出回っていた。彼らは自分が気功師だと嘘をつき、でたらめのものを作り、人々を騙すのだった。本当に良くない影響を与えた。彼らが発した気は、病気を治すことができると言うのだが、ちょっとした効き目はあっても、実質上は、功を持っていないから病気治療はできないのだ。

【ナレーション】

当時中国社会で、気功に対していろんな説が飛び交っている時に、1992年東方健康博覧会は、北京で開催された。博覧会を訪れた人々は直ぐに一般と異なるある不思議な気功に注目した。

【インタビュー・李楊】

私は1人のハンサムで若い気功師を注目した。彼は、人と接する態度はとても優しくて、外見だけでも人を惹き付けるものがあった。そこのブースに、彼が黄色服を身に付けて座禅している姿の写真が飾ってあって、いろんな記者の取材を受けた時の写真も飾ってあった。その時に、このブースは法輪功のブースであることを知った。私はノートを取り出して、先生にサインをお願いした。その時のサインは「法輪功創始者 李洪志 1992年12月21日」の内容だった。

【ナレーション】

健康博覧会で、李洪志さんと生徒たちが超能力で沢山の人の病気を治した。

「法輪功は不思議ですごい!」の噂が一気に出展・来場者の中にたちまち伝わった。

博覧会の総指揮者・李如松氏は「法輪功は博覧会では表彰最多者であり、病気治療の効果が最も良い気功である」と語った。また、総顧問・姜学貴教授は「博覧会の総顧問として、皆さんに法輪功を推薦します。この気功は確かに人々に健康及び新しい精神状態をもたらすものである」と示した。

1993年4月、李洪志さんの著作「中国法輪功」が正式に出版された。この本の中で、「気功の源」、「功能と功力」、「気功の病気治療及び病院の病気治療」などを説いており、気功学習者がいくら考えても分からなかったことが解けた。また、李洪志さんは「功能は学習者が求めるべきものではない」ことと「功力は心性の修煉によって得られるものである」などと明確にし、人々を向上させる重要なことを記している。

李洪志さんは、前言で明確に「私が出山した目的は、長年にわたって煉功している人々を高い次元へ導くことである」と記している。この言葉は簡単に見えるが、まさに煉功者が長く探し求めていたものである。

【インタビュー・李さん】

当時の自分は、長く探し求めていたものがようやく見つかったという気持ちだった。当時は流行っていた映画の中で、ある政治委員がある年配者の職員をようやく見つけた時に出て来た言葉が「やっと見つけた!」であった、私もまさにそれと同様な気持ちだった。

1993年12月、法輪功は「特別功派」として、東方健康博覧会に招かれて活動に参加した。この時、李洪志さんは博覧会の組委会メンバーに選ばれた。今回の健康博覧会に来られた多くの人は法輪功の盛名を慕って会場を訪れたのであった。

【インタビュー・李さん】

1993年の東方健康博覧会での法輪功は大盛況になり、他の気功功派のブースは、本当にガラガラだった。法輪功のブースだけが大勢集まっていた。500~600人、いや、700~800人がいたと思う。博覧会の入場開始と同時に大勢人々が法輪功のブースを目がけて走り込んだのだ。3列で並んで、1列目は病気を診てもらうために、午前の予約をする。もう1列は午後の予約をするもので、3列目は「中国法輪功」の本にサインを求める人々であった。

【インタビュー・李楊】

ある日の夕方、博覧会の展示がそろそろ終わりに近づき、ホールにはあまり人もいなくなった頃、2~3人の中年男性は、1人の年配者を急いで連れて入った。その年配者は背骨が極度に湾曲しており、殆ど45度くらいの状態に曲がっていた。数人は李先生のブースに直進した。李先生はその年配者の背中を自分の胸に寄せて、付けるようにし、背中を少伸ばすようにしながら、年配者の両足が浮くぐらいに抱き上げた。李先生は、年配者に対して「リラックスして、リラックスして、私の後を歩いてください」と言った。李先生はブースの外の広いところで大きく1周した。その年配者も李先生の後ろについて1周した。歩いている時に、李先生は常に後ろを振り向いて、年配者に「リラックスして、リラックスして歩いて、真っ直ぐにして胸を張って」と声をかけた。

私はその時に、偶然にその場に居合わせたのだが、その年配者は本当に歩きながら、背中は徐々に真っ直ぐに伸びていった現場を目撃した。李先生は、微笑みながら年配者に「リッラクスして、歩いて、歩いて、真っ直ぐにして」と声をかけ続けた。私はその場を目撃し、本当に感激した。テレビ局などで、その現場を録画できれば、どんなに素晴らしいだろうと思った。病気は一瞬で治ったのだから。そして、年配者を連れて来た中年男性は恐らく息子だろうが、すぐ様に李先生に向かって跪いた非常に感激した様子だった。李先生は「起きなさい、起きなさい」と言っただけで、本当に温和で優しい方だった。李先生はこのような感じの方なので、その時は1日だけでもどれほどの人の病気を治したか、数えきれないのだ。

【インタビュー・李さん】

当時、脳腫瘍患者、心臓病患者、肝臓癌患者などなど沢山の人がブースを訪れた。李先生が1回でそれぞれの病気を治してあげた。治療を受けた人々は法輪功のすごさが分かった。また、車椅子や杖を使って生活している半身不随の人も、李先生の治療を受けてその場で、杖を止めたり、車椅子から立ち上がって歩いたりした。だから、沢山の人は李先生に向かって、跪いて感謝の意を示した。また、後になって、銅鑼と太鼓を敲きながら感謝状を届け、ブースの横に貼り付けたりした。本当に法輪功のブースは常に賑わっていた。

【ナレーション】

李洪志さんが、健康博覧会開催期間中に多くの人のために、多大な貢献をしたこと及び法輪功の不思議な功能であるため、博覧会組委員会及び専門家委員会である意見が一致し共同決定された。即ち、今大会で唯一の最高奨励である「辺縁科学進歩賞」を李氏に与えること。さらに「最も歓迎される気功師」賞をも授与した。

法輪功は耀くスターのように、各種気功門派の中から躍り出たのであった。

(第一集終わり)