【大紀元日本7月25日】消息筋によると、中国民航総局・楊元元局長が近く、党によって事情聴取される。楊元元の調査は、首都机場集団・李培英理事長の案件と関係があるとみられる。李培英は、6月3日に「双規(共産党による事情聴取)」処分となっている。
この外、李理事長の実弟、ならびに中国華聞投資控股有限公司(以下、華控)の副総裁2人、李中強と王磊もまた調査されている。以前に、華控を牛耳っていた王政・常務副総裁は、すでに昨年11月2日に上海での案件で刑事告発され拘留中だ。
民航総局局長のポストについてすでに5年の楊元元は、1951年に遼西省の合陽で出生、国家一級飛行員だ。1966年、当時15歳の楊は、軍隊に入隊し、解放軍の第二予備役学校で飛行員になった。1968年、中国民航高級航校で履修、1969年に民航高級航校で飛行員となり、昇進を続け大隊長に就任、1981年10月に民航総局科教司で飛行検査員を歴任、1988年1月に民航広州管理局(後の南方航空公司)の副大隊長、副総飛行士、副総裁に就任した。その後、1998年に北京に転出、民航総局飛行標準准司司長に異動し、99年4月に民航総局副局長に就任、2002年5月には中国民航総局局長を歴任、その後中共16大で中央委員に当選した。
航空機事故連発の中で昇進
標準飛行員出身の楊元元には、ひとつの趣味のようなものがあって、毎年の旧正月になると、コックピットに入り航空任務について、大型旅客機を操縦する。最近でも、旧正月の一日に、CA1307/8便を運行させて北京~深センを往復した。
2002年は、中国民航にとって多難の年であった。同年4月15日に釜山、同年5月7日には大連でと、航空機事故が相次いで起こった。当時、飛行安全・外交副局長であった楊は、このような外国での重大安全事故が起こったのにもかかわらず、降格せずに逆に昇進した。このような中で、民航の総局局長に就任したため、世間の物議をかもし出した。楊は、その他数人の副局長に比して、媒体の前に姿を現すことも少ないため、外界が事情を知ることはめったにない。
2005年は、楊にとって生涯最良の年であったかもしれない。同年1月24日には、アジア地区最大の航空諮問サービス機関であるアジア航空センターが、楊に年度部長賞を送った。その評価は、「中国国内航空公司の商業化とその秩序化に成功し、中国国際航空公司の上場を促し、自由な運営環境を造成した…その指導能力をよく発揮し…」などであった。同年5月には、さらに国際的に民間航空業務に貢献した人に送られる世界領導奨も受賞した。
首都机場集団公司と華控との癒着
首都机場集団公司は、中国机場公司を傘下にする親会社で、全国にまたがる中国第一の机場集団公司だ。情報筋によると、首都机場集団理事長の李培英と華控の常務副総裁の王政とは、密接な関係にあったという。昨年11月に、王政が刑事告訴されて拘留された後、華控は重大な影響を受けて、経営譲渡の危機に直面した。危機が台頭するにつれ、首都机場は、華控の株を買い集め、王政が刑事拘留された二週間後に、協議は成立した。首都机場は、11・2億元を出資して、華控メディア部門の3億株を買い取り、上海新華聞投資有限会社の筆頭株主に躍り出た。
情報筋によると、華聞メディアの売却は、華控の経営を譲渡する第一歩にしかすぎなかった。首都机場は、メディアの資産を買い取った後、さらに経営権をもって華控に乗り込み、金融、不動産などの分野にも進出したが、はかばかしくなかった。
李培英(57)は、北京管理局所長を歴任、首都机場副総経理兼党委員会副書記、さらには北京首都国際机場股份有限公司董事長兼党委書記に就任、2003年末から首都机場集団公司で董事長・福総理に就任した。本年1月26日、民航総局は「李培英が再び集団公司の取締役会長になることはない。理事長のみだ」と宣布し、これによって首都机場が華控の経営に乗り出したことも終焉を迎えた。
李培英が双規処分になったことと首都机場の資金が華控に流れたこととは関係があり、調査を受けている華控の副総理・李中強が、資金を分割運用したものとみられる。また、資金の一部は、李倍英の実弟が所在するクアランプール・クラブに実際流れていた。
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