中共外交官・陳用林氏が政治亡命を求める内情

2005/06/08
更新: 2005/06/08

【大紀元日本6月8日】駐シドニ中国領事館一等秘書官であった陳用林氏は、オーストラリア政府に政治亡命を申請したが、当政府に拒否された。それは彼にとってまったく予想外のことであった。

陳用林氏は今年の6月で、任期が満了するため、中国に帰還する予定だった。陳さんによると、在任中には、民主活動家や法輪功に同情したため、彼らを背後から手助けをしていたという。このような「反逆行為」は後任にすぐばれるはずであり、彼と彼の家族にはいい結果があるはずがない。そこで、5月26日、彼はシドニーのキャンパーダウン(Camperdown)にある中国領事館から妻と娘をつれて、豪州政府に政治亡命を求めたという。

当日、彼は妻・金萍さん、娘・陳凡巩さんを連れて、シドニーセントラル駅付近にある豪州移民部オフィスを訪れた。彼はニュー・サウス・ウェルズ州移民部の責任者コラーガン(Jim Collaghan)との面会を求め、また中国領事館に連絡しないように求めたが、拒否された。逆に移民局の役人が中国大使館に通報し、その後彼の携帯に中国領事館から電話がかかったのである。そこで、彼は家族を連れて汽車に乗ってゴスフォード(Gosford)へ逃げて身を隠すことにした。出発前、陳さんは政治保護を求める申請書、自身が中国方面の極秘書類に接触できる立場にあるという詳細な情報、および彼との連絡方法を残しておいた。「私たちは駅へ行ってゴスフォード行きの汽車に乗った。そこには中国人が多くないから、密告される危険性が低い」と陳さんは話した。

当日の夜、陳用林氏の元に、移民部のリンゼイ(Louise Lindsay)という人から電話が入り、彼に翌日面会すると知らせたが、安全なところでという陳さんの要求にはこたえられないという。リンゼイさんは移民部のパラマター(Parramatta)オフィスで会うしかないと言った。陳さんは「本当に不安だった、そこには行きたくないが、他に選択余地がなさそうだった」と語った。それで、リンゼイさんに再度電話して、「他の安全な所、例えば警察局ではどうか」と提案したが、断られ、代わりに安全にパラマターオフィスに到達することを保証するといわれたという。その後、陳さんは中国領事館が彼の亡命申請に対して警告を出したということを知って、危険性を考えて面会を取り消すことにした。その日午後、リンゼイさんから政治亡命が拒否されたという知らせの電話があり、「その他の保護ビザも極めて難しい」、ビジネスビザではどうかと言及されたが、「非常に不安だったので、この類のビザを考えなかった」と陳さんは話した。

週末になって、陳さんは再度リンゼイさんに電話をかけて面会を求めた。今度、リンゼイさんは彼が月曜(5月30日)移民部のシドニーオフィスへ行くべきだと話したという。陳さんが月曜タクシーでシドニーまでで行くと、また情況が変わった。「移民部オフィスの後ろの駐車場で彼女に電話したら、まだ準備ができていない、キャンベラの上司に連絡しなければならない、翌日に来るように」と言われたという。

陳さんによると、当時非常に不安だった。翌日リンゼイさんと会った時、ほかに二人の女性がいた。彼女らは一人が外交部の役人、もう一人は移民部の高級役人と自称した。再び彼の亡命申請が断られた。外交部の役人は彼が中国領事館に戻るべきだと言い、移民部の役人は保護申請には否定的で、観光のビザを申請することを提案したという。「大使館と中国政府の圧力により、彼女らが自分をからかっているだけと感じた」と陳さんは語った。

「望みは極めて薄い」と言われたが、陳さんは、わらにもつかむ気持ちで、臨時保護ビザの申請書を提出した。難民事務所の弁護士は、この行動はたぶん彼を救ったと話した。

4日、陳用林氏は、シドニーで開かれた「六・四を忘れず、中共にさようなら、二百万人が中共から離脱することを応援」という集会に参加した。それは政治亡命が真剣に扱われる唯一の機会かもしれないと意識したからである。