SNSで政府批判した元中国人留学生 精神病院で過ごした地獄のような40日

2022/03/11
更新: 2022/03/11

2018年にニュージーランド留学から帰国した24歳の朱爽さんは、2年後に警察当局によって40数日間も精神病院に強制収容され、虐待、電気ショック不明薬物の強制投与、離婚、妻の強制中絶を体験するとは夢にも思わなかった。

朱さんは留学中に中国共産党の人権侵害に関する多くの情報を耳にしたが、半信半疑だったという。

中共ウイルス(新型コロナ)感染症が発生してから、強制的な都市封鎖は人間の尊厳を無視している、と朱さんは中国国内SNSで批判的なコメントを投稿するようになった。ほどなくして、アカウントが強制閉鎖された。

20年12月21日、地元である四川省成都市の警官と名乗る人物から電話があり、派出所に出頭するよう求められた。朱さんは、ネット詐欺だと思ってそのまま電話を切ったという。

翌日にも警官と名乗る人物から電話があり、朱さんが社会秩序攪乱(かくらん)、関連ビラの配布に関与した疑いが持たれているという。「自分はやっていない、嫌がらせはやめてください」と再び電話を切った。

23日午前10時ごろ、十数人の警官が逮捕状も召喚状もなく、朱さんの自宅に押し入った。警官らは朱さんを集団暴行し、家族の悲鳴が響き渡り、妊娠4カ月の妻もその場に居合わせた。

派出所に連行された朱さんに対して、警官はビラを貼ったと自白するよう強制した。「素直に応じれば勾留と罰金で済むが、反抗的な態度をとると、3年以下の懲役になる」という。

朱さんは、やってもいないことを認めてはならないと頑として拒否した。朱さんは四川省成都の精神病院に強制的に送られた。

ここから、悪夢の40数日間が始まった。

精神病にされた

警察当局は朱さんの母親に対し、治療目的で家族が朱さんを精神病院に入院させたという書類にサインするよう迫った。応じない場合、朱さんを拘置所に勾留し拷問すると圧力をかけた。

朱さんは大紀元記者に対し、自分の実体験から、中国当局が正当な理由も証拠もなく、無実の人々を精神病院に強制収容するという実態を裏付けたと述べた。

朱さんは男性看護師2人に担がれて病院に入った。そこにはよだれを垂らしている人、腰を曲げて靴で床を踏み鳴らしながら移動する人、穴だらけの軍服を着て椅子に座り、周りで起こっていることに無反応な人などがいた。

ある病室の入口に長髪の男性が立っていた。身なりは清潔で、目は澄んでいて、やつれ気味だが精神障害者には見えない。朱さんに微笑みながら手を挙げて挨拶したのはわずか数秒間だったが、後の恩人・斯毅さんとの初対面だった。

朱さんは、全身を束縛できる拷問用ベッドのある病室に運ばれた。そのとき、手錠できつく締められていた両手首から血が垂れ落ち、両手が腫れあがっていた。そして悪臭を放つベッドの上に縛りつけられた。

外が暗くなってきた頃、女性看護師が小さなキャップ一杯の薬を持ってきて、それを飲むようにと命じた。

朱さんは拒否した。すると、数人の看護師が押し掛けてきて彼を取り押さえ正体不明の液体薬品を注射した。「深夜になるとトイレに行きたくなり、叫び続けたが誰も応じてくれず、お漏らししてしまった」

数時間後、男性看護師がやってきたが、彼がベッドで排泄したことに逆上して、ベッドのフレームに縛られていた彼の両手をさらにきつく縛った。数分も経たないうちに肘関節が痛くなり、翌朝、手錠が外されたが、肩がパンパンに腫れ、腕は真っ赤になり、1週間近く肩より上に手を上げることができなかったという。

正気を保つため、朱さんは瞑想を試みた。目を閉じて、ニュージーランドのクライストチャーチの南にあるクイーンズタウンの大草原に横たわり、足元にはターコイズブルーの湖、後ろには濡れた芝生が広がる…。 すべてがただの夢であるようにと願った。

翌日、医者がやってきた。朱さんは自分は病気ではないと医者に冷静に話したが、相手にしてくれなかった。

ストレスを少しでも和らげようと、密かにヨガや瞑想を行い、軽い運動とストレッチで腕のリハビリを試みた。

その後、大部屋の病室に移った。そこには様々な理由で入院した健常者たちが集まっていた。

失敗した脱出計画

斯毅さんは強制立ち退きに遭い、陳情したため精神病院に入れられたという。2人は意気投合し、斯毅さんは、脱出計画を練り上げた。

やがて朱さんは、警察当局が妊娠中の妻に圧力をかけて中絶させたことを知った。

毎日、十数錠の不明薬物を強制摂取させられて、体に力が入らなくなり、横たわると動くのも大変なほど弱っていた。脱出計画も密告されて未遂に終わった。

その罰として、斯毅さんと二人は三昼夜、縛り上げられ、トイレも行けず、排泄物まみれになっていた。

あれから薬の量が増やされ、注射の回数も増えた。

毎日午前中に電気ショックの刑を受けた。「痛みで頭が真っ白になった。まるで生きているまま頭をノコギリで切られて、ハンマーで叩かれたような感覚だった。あの時のことは人生で二度と思い出したくない」

電気ショックは通常30分〜2時間続いたという。

電気ショックの後、朱さんもよだれを垂らすようになり、自分でコントロールできなくなった。廊下に長時間座ったまま言葉も出てこない。光が怖い、音も怖かった。

毎日、全身の骨に染みる痒みに襲われ、血が出るまでむきになって掻いていた。排泄物だらけの床に横たわり、ひたすら耐えるしかなかった。

「これまでの人生で経験したことのない、言葉では言い表せないような絶望感もあった」

斯毅さんはずっと家族のように朱さんの面倒をみていた。毎日朱さんを無理やり起こしては部屋の中をぐるぐると一緒に歩いたりして、元気づけようとした。

「家族同然だった。できる限りの世話をしてくれた。時には父親、時には兄のような存在だった。ベッドから起こしてくれて、シャワーも着替えも手伝い、一緒に仏教の本やお経を読んだり、一緒に座禅したりした。『悪には必ず報いがある、時がまだ来ていないだけ』と私を励まし続けた」

大紀元時報などの海外メディアや国内の一部のSNSが斯毅さんの境遇を報道してから、病院は彼に強制投与する不明薬物をビタミン剤に変えたという。

両親が朱さんを精神病院から救出するために、関係当局に多額の賄賂を払った。朱さんの新居のリフォーム資金17万元(約300万円)を注ぎ込んだほか、借金もした。

21年2月3日、妻と母は自力で歩けなくなった朱さんを精神病院から自宅に連れ戻した。

「再び太陽の下に立てるようになるまで自宅で1カ月療養した」。妻とはその後、離婚した。朱さんは現在、カナダ・ヨーク大学に留学している。「PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状にいまも悩まされている」という。

22年2月24日頃、斯毅さんが亡くなったとの訃報が届いた。「誰もこんな目に遭うべきではない」と彼は呟いた。

(記者・梁耀、翻訳編集・叶子静)