「私は無罪」北京人気バンド歌手の半生

2018/04/11
更新: 2018/04/11

田舎育ちでありながら、北京大学を卒業した于宙(42)は、ビジネスマンとして財をなし、ミュージシャンとしても活躍した才人でした。しかし2008年、信仰を理由に当局に突如逮捕され、拷問を受け亡くなりました。生前所属していたロックバンドはいまでも中国で人気です。しかし、当局の検閲により、中国国内のインターネットで于宙の音楽や彼の死について探しても、見つけることはできません。

「死因が明らかになるまで」との家族の強い希望から、彼の遺体は今、冷凍保存されています。没後10周年に際し、彼の妻や家族、友人は大紀元の取材に応じて、彼の半生を振り返りました。

于宙は1966年5月20日、中国北東部の吉林省で生まれました。父親は当時としては高学歴の大卒者で、母親は小学校の教師。外国文学を愛し1985年に北京大学に入学。フランス文学を専攻しました。卒業後は北京の外国語局で翻訳の仕事に就きました。

外国語局は、中国共産党を宣伝するプロパガンダ機関。于宙は毎日、党幹部のスピーチを通訳する仕事を担当しました。しかし、政治色の強い職に馴染めず2年後に退職しました。

田舎育ちの于宙には、北京での都会暮らしは苦痛だったようです。外国語局の仕事を辞めた後、ビジネスの世界に転身しました。「彼は単純で、商売のセンスなんてないと思っていた」と周りの人は言いました。

意外なことに彼はビジネスで成功しました。部下を連れ立ってタバコを吸いながら、宴会をハシゴ。付き合いで、よく行くカラオケで、いつも歌っていたのは「凡人歌」

ーお前も俺もみな平凡な人間 この世に生きている 朝から晩まで苦労して駆けずり回り 片時も休む時間はない 仙人ではないから 雑念からは逃れ難い 道義は後回しにして 私利私欲に走るー

于宙はやがて仕事に追われ、あくせくする生活に疑問をいだき始めます。ある日、妻と暮らしについて話し合いました。「ビジネスをやめて自分の好きなことがしたいね」

彼がよく通っていたバーで、2人の歌手と仲良くなり「自分が好きな歌を歌って、お金を稼げるっていいね」と意気投合。数年後、彼はトリオのロックバンドを組みました。

のんびり、悠々とした楽曲は、マイペースで自分の道を見つけていくという于宙の性格がにじみでています。激動の21世紀の中国北京で、揺らぐ若者の心をつかんでいきました。

やがて于宙は、若者が聞く自分の音楽の内容について、思慮するようになりました。「音楽は不満を発散するためのものではない」「本当の安らぎは、自身の心の中にあるはずだ」1997年、彼は中国伝統の気功修煉法・法輪功を通して、人の生き方の理解を深めていきます。

渡り鳥のような生き方を捨て、修煉の道を歩む

 

家族が明かした于宙のつづった日記帳には、「他人が認めてくれるかどうかはもう気にしない。重要なのはいつでも他人に優しく接すること」と記されていました。

1999年7月20日以降、江沢民政権は、法輪功を共産党政権の影響下に置くことができないと恐れました。そして「根絶させる」ため、党の指示で各行政、警察、司法にいたるまで徹底した全国的な弾圧を始めました。これに異論を唱えるため、全国各地からおおぜいの法輪功学習者が、北京の陳情受付所に集まりました。北京に住む于宙の家にも多くの学習者が泊まりました。

その時、一人の法輪功学習者・彭敏さんが湖北省武漢から北京へやって来ました。彼女は夜、野菜市場の空いている場所で寝泊まりして、時々于宙の家にシャワーを浴びにきました。しかし、彭敏さんは2001年4月に連行され、拷問などにより死亡しました。彭敏さんの死を知った于宙は、妻にこう言ったそうです。

「もし誰かが、自分の真理を守るために死んだとしても、残された人は悲しまないように」

于宙のバンド名は「谷の住民」、2007年11月16日には全国ツアーを開催するなど、歌手生活は順調でした。あるファンは彼の音楽をこう表現します。「于宙は音楽で楽園を築いた。目を閉じて彼の音楽に耳を傾けると、森林の中にいるようで、世俗の悩みから離れることができる」。

人気絶頂のなか、青天の霹靂が訪れます。2008年1月25日、于宙と妻は帰宅途中、二人とも法輪功学習者だという理由だけで警察に捕まりました。拘置所で彼は無罪を主張し続けていました。

その8日後、家族の元に危篤通知が届きました。于宙の家族は病院に駆けつけましたが、周囲は多数の警察官に囲まれていて、家族の誰も于宙に近づくことはできませんでした。同日午後10時、于宙は亡くなりました。

妻は夫との約束を思い出し、泣くのをやめました。「もし誰かが、自分の真理を守るために死んだとしても、残された人は悲しまないように」

警察は、彼が糖尿病で亡くなったと主張しました。于宙の姉は、于宙が監禁された拘置所の監視カメラの記録を見せるよう警察当局に求めました。しかし「ビデオは全部削除した」と言われ、留置所内で何が起きたのか、家族は知ることができません。

2011年、于宙の通州拘置所での最後の日々を目撃した受刑者が匿名で大紀元のインタビューに応えました。

「于宙が病院に運ばれるまで、私は毎日彼と一緒にいた。彼が拘置所で受けた酷刑は、人間が耐え抜けるものではない。彼は本当の男だ。こんな強い男を見たことがない」

于宙の同級生は突然の死を信じられず、「彼はいつもおとなしくて我慢強い。誰かを敵に回すことはなかった」と言いました。

(翻訳編集・李青竹)