【第三評】中国共産党の暴政

2018/01/07
更新: 2024/08/07

序文

暴政と言えば、中国人は秦の始皇帝による苛政と焚書坑儒を連想するものがある。始皇帝の「天下の資産が尽きるまで政治のために」《漢書・食貨志》という暴虐は、集中的に4つの方面に現れた。「情け容赦のない租税の取り立て、人民の財力を功名心の赴くままに乱用、近隣も連座させる過酷な法律と刑罰、思想統制と焚書坑儒」があげられる。秦が中国を統治した時代、およそ1千万の人口に対して、2百万人の労働者を強制的に徴用した。始皇帝はさらに過酷な法律と刑罰を思想の領域に広げ、はばかることなく思想の自由を束縛し、かつて政治を批判した儒学者を千人あまりも殺害した。

このような「虎狼の秦」と比較しても、共産党の暴虐は勝るとも劣らない。よく知られているように、共産党の哲学は闘争の哲学であり、共産党の統治も、内外の「階級闘争」、「路線闘争」、「思想闘争」で作り上げたものである。毛沢東は「始皇帝など取るに足らない。彼は460人の儒学者を殺し、私達は4万6千人の儒学者を殺した。人は私達を独裁統治だと、始皇帝のようだと罵るが、それも認める。しかしながら、それでは言い足りてはいない。言ってみれば、それどころではないのである」と率直に言った。[1]

共産党統治下の中国の苦難に満ちた55年を少し振り返ってみよう。中国共産党が政権を奪い取った後に、いかにして政府の構造を利用し、階級闘争の理論で階級を絶滅させたのか、また、どのように暴力革命の理論で恐怖の統治を実行したのか。「人を殺し」、「心を殺す」ことで、共産党以外のすべての信仰を弾圧して、自らを美化し、中国で「神をつくる」運動の幕を開けた。共産党の階級闘争と暴力革命の理論によって、反体制の社会階級と異分子を粛清し、それと同時に暴力と欺瞞により、中国人民を専制支配下の従順な民としていった。

一 土地改革 — 「地主階級消滅」

建国してわずか3ヶ月後、共産党は全国一斉に土地改革を展開して、「耕す者に土地を与える」というスローガンを掲げ、耕作地を持たない小作農に地主との闘争を煽り、手段を選ばず、放縦に任せ、道義性などは無視した。そして、土地改革路線の中で、明確に「地主階級消滅」を謳い、農村で階級区別を行い、全国に身分(階級制度)を設け、2千万人に「地主、富農、反(革命的)分子、悪人」のレッテルを貼り付け、社会的に差別し、弾圧し、公民権さえない「賤民」とした。更に、土地改革の仕組みを辺境地域と少数民族にも深く浸透させ、共産党の党組織も迅速に拡大させ、郷には党委員会があり、村には支部を設けるまでに発展した。党支部は党の意図を下達する。彼らは階級闘争の第一線を突き進み、小作農と地主の闘争を引き起こして、10万人近くの地主の命を奪った。更にある地区では地主一家を全滅させ、女子供でさえ容赦しなかった。

この時期、共産党は全国の農村で「毛主席は人民を救う神だ」、「共産党しか中国を救うことはできない」と宣伝しはじめた。土地改革による不労所得で小作農に実利をもたらし、多くの貧しい小作農は共産党に恩を感じた。そのため、共産党は人民のためにある、と認めた人も多くなっていた。

土地を得た小作農にとって、「耕す者が土地を得る」という状況は、長くは続かなかった。2年のうちに共産党は、農業従事者に互助組、初級合作社、高級合作社、人民公社などを強引に押しつけた。「纏足の女性」を槍玉に挙げ、歩くことが遅い人々を批判するスローガンを展開し、農村を社会主義へと駆り立てた。全国で食糧、綿、油の販売を統制し、全国の主要な農作物を市場流通から排斥した。更に居住登録制度を設け、農業従事者が都市へ出て働き、居住することを禁止した。農村戸籍の人は、国家の米穀食料販売店に行って食糧を買うことができず、子供も都市の学校へ行くことはできない。農村の子女は農業従事者になるしかない。中国3億6千万の農村戸籍所持者は、二級の公民とされたのである。

改革の年代に至って、“一部分の人がまず豊かになった”にも関わらず、人民公社から家庭単位で請け負う制度に変わり、収入も増え、社会的地位も相対的に改善された最初の五年間を除き、9億人の農業従事者は、農業生産物の下落に圧迫され、再び貧困に陥った。都市と農村の収入格差が急激に拡大し、貧富の差が大きくなり、農村でも新たな地主や富農が現れた。新華社発表の資料でも、 1997年以来「食糧の主な生産区と多数の小作農の収入が、継続的に横ばいか、減っている」と表明している。つまり農村における農業所得は、増加するどころか減少しているのである。都市部と農村部における所得格差は、1980年代中期の1.8対1から、3.1対1まで拡大した。

二 商工業の改造−資産階級の消滅

もう1つの消滅させられた階級は、都市と農村の民間資産階級である。商工業改革で共産党は、“資産階級と労働階級は本質的に不一致だ。1つは搾取階級、1つは搾取される階級である。資産階級の搾取は生まれついてのものであり、死しても変らず、消滅させることはできても、改造することはできない”と公言した。この前提で、資本家と商人に対する改造は更に重くなり、「殺人」と「心を殺す」二つの方法が併用された。その原則は、従う者は守り、逆らう者は滅ぼすというものであった。資産を上納し、そして共産党を支持すると言えば、反革命者とみなされない。もし、不平や反感を持つことがあるならば、反革命者として弾圧される対象になる。商工業改造の血まみれの闘争の中、資本家、商人はすべて彼らの資産を上納した。屈辱に耐え切れず自殺した人も多数いる。当時の上海市長・陳毅は、「今日はどれだけのパラシュート兵がいたか?」と毎日尋ねていたという。つまりどれだけの資本家が、飛び降り自殺したのかという意味である。このように、中国共産党は私有制を一気に消滅させた。

土地改革と商工業の改造と同時に、共産党は反革命者の弾圧、思想改造を始めた。高崗(こうこう)・饒漱石(じょうそうせき)などの党に反対するグループを粛清し、また、胡風(こふう)[2]の反革命グループを打倒した。三反や五反[3]、反革命分子の粛清など全国で大規模な人の改造を始めた。 改造運動のたびに共産党は、党委員会、総支部、支部など関連するすべての政府機構を利用した。3人が一部隊になって、山村深くまで入り込んだ。あらゆるところに浸透し、すべてのことに手を伸ばしていった。このような戦争時代に組み込まれた、党支部組織の流れを汲む統治ネットワークは、その後の政治運動で主要な役割を果たしてきた。

三  民間宗教組織取締りと宗教弾圧

中国共産党は建国後、宗教に対する暴虐な弾圧と民間宗教組織に対する全面的な取締りを行った。1950年各地の政府に対し、全面的に民間宗教組織を取り締まることを指示した。封建的な民間宗教組織は国民党のスパイ、反革命分子、地主及び富農にコントロールされているとした。この全国の市町村まで波及する運動の中で、政府は認定した階級を総動員し、民間宗教組織に打撃を加えた。政府はすべての「迷信」組織、たとえばキリスト教、カトリック教、道教(特に一貫道)、佛教などを解散させた。これらの教会、佛堂、分派は政府に登録して、過ちを悔い改める約束をしなければならなかった。登録せず、それが露見すると厳重な懲罰が与えられた。1951年、政府は民間信仰を続けるものに対して、死刑あるいは無期懲役を言い渡すとした。

その運動で神を信じ、善に向い、法を守る普通の人々を対象に弾圧した。統計によると、合計でおよそ三百万人の信徒、民間人が捕らえられて殺された。都市及び農村で、全世帯が取り調べに遭い、農村で供物を奉げる「かまどの神」までもが破壊された。殺人と同時に、更に共産党のイデオロギーが唯一合法的なイデオロギーであること、共産主義が唯一合法的な信仰であることを確立した。それからいわゆる「国を愛する」という信者が現れた。「国を愛する」信者になれば、国家の憲法による保護を受けることができる。実際には、民衆がどのような教えを信じるか、ということなど関係なく、基準は一つだけである。つまり、全て党の指揮に従って行動し、共産党がどんな教会や寺院よりも、上位にあることを認識しなければならない。キリスト教を信じるなら、共産党はキリストの神であり、佛教を信じるなら、共産党は佛教の教祖の教祖であり、回教なら、共産党はアラーのアラーである。活佛といっても、共産党の認可がなければ活佛になれない、といった具合である。つまり、個人は党に従い言うべきことを言い、行動をしなければならない。信徒は各自の信仰を唱えながら、党の意図を守る。そうしなければ、弾圧の対象となるのである。

2万あまりのキリスト教徒による、中国22省207都市56万人の民間キリスト教信者の家庭訪問によって分かったように、その信者の約13万人が監視されていることが確認できた。 1957年より以前に、一万一千人余りの信徒が殺され、大量の信徒が不法に逮捕され、あるいは、罰金を徴収されることが余儀なくされた。これにより、共産党は中国で地主階級、資産階級を消滅させ、都市及び農村で神を信じ、法律を守る人民を迫害し、共産党という一つの邪教が、天下統一の基礎を建てたのである。

四 反右派運動 ━全国規模の洗脳で手下にする

1956年ハンガリーの学者たちにより結成されたペテーフィ倶楽部[4]がソ連軍によって虐殺され、 「ハンガリー」事件と言われ、毛沢東は以後の戒めとした。1957年、中国で「百花斉放、百家争鳴」をスローガンに、中国の学者と大衆に「共産党の整風(綱紀粛正)を助けよう」と呼びかけた。その意図は、「党に反対する者」を引き出すことであった。毛沢東は、各省の党委員会書記への手紙の中で、整風を言いつつ「蛇を穴から引き出す」という意図を伝えていた。

その時、人々に自由に発言させるために作られたスローガンがある。「弱点につけこまない、打撃を加えない、帽子(レッテル)をかぶせない、後から追求しない」。結局、一度の反右派闘争で、55万人の「右派分子」が確定した。27万人が公職を失った。23万人が「中右分子」と「反党反社会主義者」と決められた。ある人は、毛沢東の策略を整理して四箇条とした。それは、1)蛇を穴から引きだす。2)罪状をでっち上げ、不意打ちを加え、決め付ける。3)表向きには善意の批判により、更正を助けると言いつつ、実は非情にも打撃を与える。4)自己批判を迫り、限りなく大げさに取り上げる。というものであった。

これだけの数の右派と反党分子を、30年間も寒冷貧困な辺境地区に流罪とさせた。「反動的な言論」とは一体何であろうか?当時、頻繁に批判された右派の「三つの反動的な理論」というものは、羅隆基(らりゅうき)、章伯鈞(しょうはくきん)と儲安平(ちょあんへい)による数回の講演会発言から構成されたものである。羅隆基は「1つの共産党と民主諸党派の党員で構成される委員会を作り上げ、三反、五反[3]、反革命分子粛清の仕事の中の間違いを検討すること」、章伯鈞は「国務院に対して、政協、人民代表大会などに態度を表明させ、政策の策定の過程に携わるよう提案した」、儲隆基は「党外人であっても見解、自尊心と国家に対する責任というものがある。全国規模において、あらゆる部門、科、グループで、党員だけを責任者にするようなことをしない。さもなければ、細かいことでも党員の顔色で決まるようなこととなる」、彼らはこのようなことを提案していたのである。

これらの人々は、明確に共産党に従う意志を表明しており、その意見もすべて魯迅[5]が述べたような「旦那さま、あなたの長衣は汚れております。どうぞお脱ぎになってお洗い下さい」 という範囲を超えてはいない。

「右派」だといわれた人々は、打倒共産党など考えておらず、ただ意見を述べ、提案をしただけなのであるが、これだけで数十万人が人身の自由を失い、数百万の家庭に苦難をもたらした。更に行われたのは「党に心を預ける」、白旗を抜く(社会主義で白というのは、資産階級の例えであり、資本主義の手段であり、当時の表現として“赤旗を差し、白旗を抜く”というものがあった)、新三反、田舎での強制労働及び前回免れた人たちに、右派の烙印を押すことであった。当部門のリーダー、特に党委員会書記に意見があるならば、党に反対ということになるのである。その結果として、軽い者は絶えず批判され、重い者は労働による矯正あるいは、全家族が農村へと送られることとなる。これらの人々は、その子女も含め、大学、軍隊に入る権利を奪われ、県政府のある町で仕事を探すことも許されない。更に、労働保険、公費医療をも失い、二級公民の中の賤民とされたのである。

こうして、一部の学者は日和見的となり、権力になびく二重人格となった。常に「赤い太陽」に追随して、共産党の「御用学者」となり、中共の言われるままとなった。他の学者は、孤高を保ち、政治からは距離を置いた。 国家に対して、伝統的に強い責任感を抱いていた中国の知識人たちは、それ以来沈黙を続けている。

五 大躍進−鹿を指して馬と為し、以ってその忠を試す

反右派運動の後、中国は事実を恐れるようになった。嘘に耳を傾け、出鱈目な話をでっち上げ、デマと偽りの行為で真実を避け、覆い隠していた。大躍進は、全国範囲の集団嘘の大爆発であった。全国民は、共産党という邪霊の導きに従い、馬鹿げたことをするようになった。嘘をつく者も騙される者も、自らを欺き人をも騙すようになった。この嘘と愚行の中で、共産党の暴虐な邪気は、全国民の精神にまで入り込んでいった。人々が大声で歌うのは「私は玉皇(ぎょくこう)、私は竜王、三山五岳に道を開けと命じ、私は来たのだ」[6]とかいう躍進歌であり、実施しているのは「一畝(674.322㎡)当たりの収穫量を1万斤(5,000キログラム)、鋼鉄生産量は倍増、10年でイギリスを超え、15年でアメリカを超える」という雄大ですさまじい出鱈目な計画であるが、数年の間覚めることがなかった。それによって深刻な大飢饉となり、餓死者が野に溢れ人民は生きた心地がしなかったのである。

1959年の廬山(ろざん)会議で、 会議参加者は誰もが、彭徳懐(ほうとくかい)[7]の意見が正しいことを知っていた。誰もが毛沢東の大躍進は荒唐無稽で、独断専行だと知っていた。 しかし、毛沢東を支持するかどうかは、「忠」と「奸」を分ける生と死の境界線である。昔、趙高(ちょうこう)[8]は、是非を転倒して、鹿を指して馬だと言った。しかし、それは決して馬と鹿のことを知らないからではなかった。世論を左右させ、徒党を組んで個人の利益を求めるのが目的だった。 人を盲目的に従わせ、論争する勇気すら与えなかった。 最後、彭徳懐は、本心と裏腹に自らを粛清する決議に署名した。 同様に、文化大革命後期に、皦スは、退職を迫る政府の決定に異議を唱えることはしないと、約束をせざるを得なかった。

人類社会は経験によって世界を認識し、視野を広げるのに対し、共産党は人々に対し、歴史の経験と教訓を知らしめない。更に政府の情報封鎖により、人々は是非を弁別する能力が、日増しに低下してしまうのである。次世代の人々は、先任者の運動における理念や理想と経験に対して、完全に無知となり、歴史を断片的にしか理解できず、新しい事を判断することができなくなる。自分では正確だと思い込むが、実は大きな間違いを犯してしまう。共産党の愚民政策は、このような方式で行なわれてきたのである。

六 文化大革命−邪霊が取り付き、天地が逆転する

文化大革命は、共産党という邪霊が全中国に取り付いて起した大事件であった。1966年から、中国大陸をもう一つの暴虐の嵐が襲い掛かった。赤色恐怖が荒れ狂い、狂った龍、轡の外れた馬のように荒れ狂い、山は震え、河は凍えた。作家の秦牧はかつて、中国の文化大革命を次のように絶望的に表現している。

「これは本当に前例のない大災害だ。数百万人が巻き添えになり、数百万人は恨みを持ったまま死に、多くの家庭はばらばらに崩れ、少年たちは悪辣な浮浪者になり、書籍は焼かれ、名所旧跡は破壊され、先賢の墓は暴かれ、革命の名の下で罪悪が行なわれていた」。

控え目にみても、文化大革命中の虐殺被害者は773万人に達している。

人々は、文化大革命の暴力と殺戮は、無政府状態の下で発生したものだ、という錯覚を持っている。殺人者はすべて「紅衛兵」、「反対派」だと思っている。しかし、中国で出版された数千冊の県誌などの資料によって、文化大革命中、最も死者の多い時期は、紅衛兵が反逆し、政府も機能しなかった1966年末でもなく、反対派の力による闘争が盛んな1967年でもない。それは「革命委員会」が全国に作り上げられ、毛沢東が統制力を振るった1968年であった。有名な大虐殺事件で、闇雲な暴力、血なまぐさい虐殺犯人の大部分が、軍隊の将兵、武装民兵と党員幹部だった。

下に示す例で、これらの暴行が、決して紅衛兵や反対派による一時的な過激行為ではなく、共産党と地方政権の既定の方策によるものだと分かるだろう。しかし、文化大革命時代の指導者と権力機構が直接、暴政を指揮し参与したことは、ずっと隠されてきた。

1966年8月、北京紅衛兵は「送還」を名目に運動を展開、悪人、右派、資産家、反革命とみなされた者を、強制的に北京から農村へ追い払った。政府の不完全な統計でも、当時33,695戸の北京市民が家財を差し押さえられ、85,196人は本籍所在地に戻された。この手口は急速に全国の大都市に広がり、40万人の都市住民が農村へと送還された。地主出身の共産党幹部の親でさえ、免れることがなかった。

実際に、このような行動は、中国共産党が文化大革命以前に、すでに手配していたものだ。当時の北京市長の彭真(ほうしん)は、北京住民の出身は「ガラス板や水晶のように純粋」であるべきで、出自のよくない人を、すぐさま北京から追放しようとしていた。1966年5月、毛沢東は「首都を守れ」と指示を出した。叶剣英(きょうけんえい)、楊成武(ようせいぶ)と謝富治(しゃふじ)をはじめとする首都工作組が創立された。この工作組の任務の1つは、警察を通して大規模で「出自のよくない」住民を送還することであった。

当時、紅衛兵が2%の北京市民の家を荒らし、家財を差し押さえて、住民を送還しても、政府に阻止されていないどころか、かえって警察の支持を得ていたということが、これでよく分かる。当時の公安委員会委員長である謝富治は、幹部と警官に紅衛兵を阻止せずに、むしろ、紅衛兵の「参謀」となって、情報を提供するようにと求めた。紅衛兵も当局にただ利用されていただけであり、1966年末までには、これらの紅衛兵も共産党に見捨てられ、多くの者は、反革命主義者と宣言され、監獄に入れられた。また、従った都会の青年らも山村へと送られ、労働と思想改造をさせられた。当時、紅衛兵の組織の主宰者も、共産党の指導者による「面倒見のいい指導」の下で育てられ、その訓令も当時の国務院秘書長に修正された後に、発表されたものであった。

北京で地主や資産家らが、農村に送還されたのに続き、農村でも新たにそれらの人々に対する迫害を始めた。1966年8月26日に北京市大興県警察署の会議で、公安委員会委員長・謝富治の演説が伝達された。その中に、警官が紅衛兵の「参謀」となり、黒五類(地主、資産階級、反革命者、悪人、右派を悪の黒五類とした)の情報を提供して、協力して家財を差し押さえる、というものであった。大興県(だいこうけん)の殺戮[9]は、直接県の公安局からの命令によるものだった。殺人を仕切るのは公安局の主任、党委員会書記だった。殺人を犯した者のほとんどは、子供さえ容赦しない民兵だった。多くの学者も殺戮の際「態度が良い」ということで入党できた。広西省だけの概算統計によると、文化大革命中で9千人あまりが、殺人をした後に入党が許され、2万あまりが入党した後に殺人を犯し、1万9千人あまりが殺すことに加担していた。この省だけで5万近くの共産党員が、殺人事件に関与したことが統計で示されている。

文化大革命中は、「人を殴ること」に対しても、階級理論が適応された。善人が悪人を殴るのは当然であり、悪人が悪人を殴るのは光栄であり、善人が善人を殴るのは誤解である。毛沢東がでっち上げたこの理論は、そうした反逆的な運動で広く伝わった。階級の敵に暴力を振るうのは、彼らに対する「あるべき姿」であるから、暴力も殺戮もすぐに拡大していったのである。

1967年8月13日から10月7日まで、湖南省の人民武装部の民兵は、「湘江の嵐」のメンバーと黒五類の人々を殺戮した。66日間続き10の地区に関連して、36の人民公社、468の大隊で、2,778戸の計4,519人が死亡した。地区の10の県では、計9,093人が死亡し、その中38パーセントが「地主、富農、反革命者、悪人」で、44パーセントが子供だった。最年長の被害者は78歳、最年少は生まれて10日目の赤ん坊であった。これは文化大革命の暴行の中で、ただ1つの地区での1つの事件だけで起きたことである。1968年当初に「革命委員会」が創立された後、内モンゴルは「内モンゴル人民党」を調べ上げて、35万人以上を殺害した。1968年広西で数万人が「四・二二」集団武装大虐殺に参加し、死者は11万人にものぼった。

これらの事実からも分かるように、文化大革命中の暴力、殺戮に関する重大事件は、すべて国家機関の行為であり、共産党の指導者による暴力迫害を放任し、利用した結果、庶民が惨殺されたのだ。直接これらの殺戮の凶悪犯を指揮して実行したのは、軍隊、警官、武装民兵と党と団(共産主義青年団)の幹部だった。土地改革が土地のために、小作農に地主を殴らせることで、商工業改造は資産のために、労働者に資本家を殴らせることであり、反右派運動は学者を黙らせるためである。文化大革命に見られるこのような相互闘争から、決してどの階級にも依存することなく、たとえ共産党の頼りである労働者や農業従事者でも、観点が一致しないと殺される。なぜであろうか?

すべては共産党が、天下統一を達成するためであった。 国家を統治するだけではなく、あらゆる人の思想も統治するのである。文化大革命は、共産党、毛沢東の「神をつくる」運動の最高峰なのであった。毛沢東の理論は、独裁専制で一人の理想を全員の理想にしようとした。空前絶後と言えるのは、文化大革命ではしてはならないことを規定せず、しかも「何をすべきか、どのようにすべきか、これを除いては何もなすべきでなく、思ってもいけない」ことだ。文化大革命中は、全国の人民が宗教と同様に「朝に教示を受け、夜に報告」を行なった。毎日数回、毛主席の長寿を祈り、朝晩2度に渡り政治祈祷をした。字を読める人なら、必ず自己批判と思想の報告書を書いたものである。言葉では必ず語録の「断固として私念を打倒する」、「理解できれば執行する。理解できなくても執行する。執行の中で理解を深める」を言っていた。文化大革命の中で崇拝することを許されるのは、ただ一人の「神」、読めるのはただ1冊の「経」、つまり毛沢東語録だった。さらに語録を暗記していないと、食堂でご飯を食べることすらできなくなっていた。買い物をしていても、車に乗っていても、電話をかけても関係のない語録を、少なくとも一つを言わなければならなかった。人々はその時に熱狂的に興奮するか、あるいは無感覚になるかで、完全に共産党の邪霊にコントロールされていた。嘘を捏造し、嘘を我慢し、嘘に頼ることは、すでに中国人の生活方式になっていた。

七 改革開放−暴虐は変らず、時とともに進む

文化大革命は、鮮血にまみれ、憎悪の魂が空に満ち、良知は絶え、黒いものも白いとする善悪が反転した時代である。文革以後、頭目の旗は変わり、共産党の政権は二十数年の間に6代の指導者が交代した。私有制度が再び中国に戻り、都市と農村の格差が広がり、砂漠の面積が増え、川の流れが分断され、麻薬販売・売春も今までに無い勢いで増加するなど、共産党が「消滅させる」と称していた罪悪の数々は、結局自ら育ててしまったことになった。

共産党が生み出した、残虐非道の心、非人間性、魑魅魍魎の行い、国への禍は増える一方である。六四天安門事件では、戦車で学生らを踏み潰し、最近では法輪功修煉者に対する暴虐な迫害など、言葉では言い尽くせない。2004年10月、農業従事者の土地を没収するために、1,600名の治安警官を動員し、50名の農業従事者を相手に銃を発砲し殺傷した。現代中国の統治方法は、未だに共産党の闘争哲学と暴力崇拝である。唯一変わったのは、欺瞞が増長したことである。

【法律】共産党が絶えず闘争を起こし、数多くの国民を「反革命分子」、「反社会主義分子」、「悪分子」、「邪教徒」にした。その為、その独裁政権は、多くの民間団体と尖鋭な衝突を起こした。共産党が「秩序を守り、社会の安定を維持するため」との大義名分で、度重なる「法律」と「条例」の改定を行ってきた。民衆が不満に思ってもそれを「反革命行為」と名づけて、弾圧するのである。1999年7月、江沢民は、多くの政治委員が反対したにもかかわらず、個人の意思で法輪功の弾圧に踏み切った。「3ヶ月以内に法輪功を消滅させる」ということのために、嘘とでっち上げが天地を被った。江沢民が法輪功を「邪教」と定義した直後、政府メディアが次々に発する文書で、全国官庁・企業に対して圧力をかけ、全国人民代表大会(共産党がコントロールする中国の国会)もそれに従って、「邪教」を処置するための訳のわからない「決定」を下した。その後、最高裁判所と最高検査院が人民代表大会の「決定」に対する「解釈」を公開した。1999年7月22日、新華社が中共中央組織部、宣伝部トップのスピーチを載せ、江沢民の法輪功弾圧を支持した。広大な人民群集を、この神人共に怒りに震える迫害の渦中に巻き込み、「共産党中央」が決め付けたことにより、ひたすら実行され、異議を唱えることが許されなかった。それ以降の5年に渡って、法輪功弾圧に国家資産の1/4の財力が費やされた。国民一人一人が態度の表明を強制された。法輪功修煉者であることを認め、そして諦めない人は職をなくし、強制労働収容所へ送られた。何ら法に違反したわけでもなく、国や政府に反対しているわけでもない。ただ“真・善・忍”を信じたがために千人、万人が拘留されている。中共が強固に情報をコントロールしているため、親族から確認できた範囲によれば、すでに1,100名以上の法輪功学習者が命を失っているのである。確認できない人々を含むと更にその数は膨らむ。

【マスコミ】2004年10月15日付の香港文匯報に、試験衛星の回収についての記事があった。中国の第20号の試験衛星が地球に落下、四川省大英県蓬莱町の霍積玉氏の家屋を壊した。記事には、大英県政府弁公室責任者の艾裕慶の「この黒い物体は確かに科学衛星の船体である」が引用されていた。艾裕慶は衛星回収現場の副指揮者であった。しかしながら、新華社のニュースでは、衛星の到着時間が伝えられ、中国が回収した第20号の技術試験衛星であることが強調されたが、衛星が家屋を壊したことについては、一言も触れなかった。こうした都合の良い面だけを伝え、悪い面を伝えないのも、共産党の指示によって行われる一貫した手口である。

毎回政治運動を正当化するために、新聞・テレビの偏った、偽った報道を利用してきたのである。共産党の命令一つで、各地のメディアは一斉に動き出す:「反右」と共産党が宣言したら、全国の新聞社が「右翼の罪悪」について報道をし、共産党が「人民公社」を実施する政策を打ち出したら、人民公社の利点について語り尽くす。法輪功弾圧から1ヶ月の間、テレビ・ラジオがゴールデンタイムに、全国民に対する洗脳番組を繰り返した。その後、江沢民があらゆるメディアを利用して、法輪功学習者の「自殺」と「殺人」などをでっち上げた。その中、「天安門焼身自殺事件」は、国連教育発展組織に「政府が起こした公然詐欺」と断定された。過去5年間、中国の新聞紙・テレビに法輪功の真実について報道されたものは1件もなかった。

民衆は中国メディアの嘘を見ても怪しまない。新華社のあるベテラン記者が自ら「新華社の報道なんて信じるわけには行かない」とコメントした。民間は中国の新聞機構を共産党の番犬と呼んでいる。ある風刺では「共産党の番犬だ。玄関で待っていて、誰かを噛めといえば噛むし、何回噛めと言われれば命令に従う」と言われている。

【教育】教育は、民衆をコントロールするためのもう一つの手枷足枷である。教育は本来、人の知識を育てるためにあるもので、「知識」とは「知」と「識」からなっている。「知」とは情報・資料・伝統文化・時事などの理解であり、「識」とは知りえたことに対する分析・研究・批判、またそれを用いて創造する精神的な過程である。「知」だけで「識」が無ければ、勉強の機械であって、社会良知を持つ真の知識人とは言えない。中国で従来尊敬されてきたのは「有識之士」で、「有知之士」ではないのはこの故である。共産党独裁の下で育った「知識人」はこう言った「知があって識が無い」者たちばかりで、「識があっても、あえて使おうとしない」学者がほとんどである。学校でも学生たちに、共産党一党独裁維持のための「やってはいけない」ことについて教えるのである。一貫して、授業に政治と共産党史の科目が設けられており、統一教材を使用している。教師らは教材に書いていることを信じてはいないが、「紀律」があるので、心ならずも嘘の話をせざるを得ない。生徒たちも教科書及び先生の話を全部は信じておらず、試験のために丸暗記をしなければならない。中学・高校・大学の試験には、法輪功を批判する内容が実際出題されており、模範解答を出さなければ、高い点数を得ることができないばかりか、真実を答えたら学籍を奪われ、進学の資格も取り消されるのである。

民衆を教育するために、新聞などからいろいろな材料が、耳にたこができる程繰り返し伝えられる。たとえば、「敵が反対することは我々が擁護する、敵が擁護することは我々が反対する」などの語録が、事実上の倫理道徳基準になっており、人々の善良な本性や客観的な判断基準を酷く蝕んでいる。2004年に中国情報分析センターが、新浪ネットで行った電子調査を分析した結果、82.6%の若者が戦争中に起きる婦女及び捕虜に対する虐待に、賛成していることが分かった。意外性ということ以外、中国民衆、特に若い世代の伝統文化の仁政・人間性に関する知識、及び意識の低さを物語っている。2004年11月9日に、蘇州で起きた28名の児童を包丁で殺傷した事件、9月20日に山東省で起きた25名の小学生を殺傷した事件、更に酷いことに、学校の資金を調達するために、教師が小学生に爆竹を手作りさせたところ、爆発が起きて子どもたちが亡くなった事件、といったことが発生している。

【政策の施行】共産党の指導の下、政策を施行させるため往々にして強制・脅迫的な手段を取る。政治スローガンはその中の一つである。長年にわたって共産党政権は、スローガンの数を業績として評価してきた。文化大革命の時、北京の街は一夜にしてスローガンの紙で染まる「赤い海」となっていた。「共産党内部に資本主義路線を歩む権力派を打倒せよ!(農村部では略して「権力派を打倒せよ」)」などが随所に見られた。最近、「森林法」を宣伝するために、林業局から宿題として張るべく、ポスターの枚数についての通知があった。それをクリアしないと認められないのである。その結果、施行部署は「山を焼く人は務所行きだ」のようなポスターを大量に印刷した。

一人っ子政策を遂行させるために恐ろしいスローガンもある。「一戸でも二人目を生んだら、村の女性が全部手術を!」、「一人死んでも、予定外の一人を増やさない」、「手術すべき人が手術しないと、家が倒壊。妊娠中絶すべき人が中絶しないと、農地と牛を没収する」。他にも「今日、税金を納めないと、明日は刑務所」のような人権も憲法も無視したスローガンもある。スローガンは一種の広報手段である。直観的で、見る回数も多い伝達手段なので、中国政府が政治的意思伝達や呼びかけによく用いる一方、民衆との対話でもあるので、政策宣伝の中から暴力と残虐さが満ちていることが読み取れる。

八 全国規模の洗脳、地面に丸を書いていたる所を牢とする

中共の最も威力のある統治手段は、ネットワーク的なコントロールであり、組織を使って人々に奴隷の思想を植え付けるのである。前後しても、矛盾しても構わないが、とにかく組織を利用して、人間が持つべき基本的な権利を奪い取るのである。中央政府のくちばしは、社会の隅々まで伸びており、都市部でも、農村部でも町の住民委員会が存在しており、結婚・離婚・出産は全てそれの許可を得る必要がある。共産党の思想形態・体系、組織モード、社会構造、宣伝機構、実行体系の全部がこの権力のためにあり、つまり全政府組織を駆使して、民衆の行動、並びに思想をコントロールするのである。

共産党統治の残酷さは、肉体に対するものだけではない。人間独自の判断能力を奪い、または独立な見解を持っていても発言できなくし、国民を生活の平穏さのみを求める弱者にすることに重点がある。その目的は、社会の一人一人を洗脳することにあるが、洗脳により共産党と同じことを思い、同じ話題で話し、共産党の思うままに操られる。あることわざのように、「共産党の政策は月と同じで、一日と十五日は形が違う」とあるが、政策が目まぐるしく変わったとしても、人民はそれに追随しなければならない。他の勢力を倒すために利用されても、共産党の「使ってくれた恩」を、革命の対象になっても「教育してくれた恩」、自分が受けた迫害が過ちと認められ、冤罪が晴らされた時でも、共産党の「寛大さと、間違えを知って修正した」ことに対して、感謝しなければならない。共産党の暴政は、こうした迫害と名誉回復の繰り返しにより、実現されている。

55年に及ぶ暴虐的な統治を経験した今日の中国人は、思想面で「地面に丸を書いて牢とする」状態にあって、共産党が規定した固い枠にはめられているとも言える。枠より少しでもはみ出れば、命の危険に曝される。数多くの革命・運動の後、中国では愚昧が知恵とされ、忍ぶことが生きていく為の術となっている。インターネットが人同士の交流の主要なツールとなった今日でも、一般市民はインターネットで閲覧できる範囲を規制され、海外からのニュースを見ることができないのは当然であり、「人権」・「民主」と言ったキーワードを持つウエッブサイトを見ることもできない。

このように共産党の馬鹿げた、残酷、卑怯な洗脳は、あらゆる面に満ちている。それが中国社会の価値観を倫理道徳観念の根底から壊し、中華民族が古来有していた行動基準と生活方式を崩した。共産党は、自分たちの思想に唯一の正当性を与えるために、国民に対して、肉体と精神面での侵害を絶えず行ってきたのである。

結び

ここまで述べてきたところで、共産党が年々の日々闘争を止めないのは一体なぜであろうか。闘争の目的を達成するためならば、殺人も、環境破壊も、中国の大部分の農村及び都市部を長期に渡って貧困にしても、惜しまなかった。

これらは共産党の理想なのだろうか?そうではない。共産党の党是の一つは、私有制度を消滅させることであり、これは私有制度が諸悪の根源だと思っているからである。共産党が政権獲得の時には、私有制度の全面的消滅に励んでいた。しかしながら、改革開放に伴って、私有制度がまた中国に戻ってきた。今や憲法も私有財産の保護を規定している。共産党の目くらましから離れられれば、人は誰でも、55年来、共産党の統治は財産再分配の人間活劇を演出したに過ぎず、巡りめぐって、最終的には人の財産を己の私有財産にしたに過ぎない。元々、共産党は自分たちを「労働階級の先鋒」とし、その使命は資産階級を消滅することだとしたが、今や共産党の規則では、資本家が入党できると明言している。逆に、共産党員でも共産党と共産主義を信ずる人がいなくなり、今や共産党に実質的に残っているものは、上辺だけとなっている。

こうした長期に渡る政治闘争は、党の廉潔さを保つためなのだろうか?そうではない。共産党が政権を握ってから55年になるが、今の共産党幹部は、汚職・腐敗・不法行為・国を誤り、民を害し、上から下まで甚だしいことこの上ない。中国には2千万人の共産党官僚がいるが、近年の調査では、そのうちの8百万人が汚職・腐敗で処罰を受けていることが判明した。更に毎年100万人近くの人が、まだ知られていない汚職官僚を上訴している。2004年の1月から9月の期間において、中国国家外貨管理局が全国35の銀行及び41の企業に対して調査したところ、違反契約金額が1億2千ドルにも及ぶ集計結果となった。他の統計によれば、近年4千名以上の共産党幹部が、外国へ現金を持ち逃げしたことによる国の直接損失が、数百億ドルにも及んだ。

それではこういう政治闘争は、国民の素質と認識を上げ、国家の大事に関心を持ってもらうためなのだろうか?そうではない。共産党の教育を受けた中国では物質的欲望が横行し、人心は昔と違い、騙し合いは随所に見られる。多くの国民が重大なことに対しても、知らず言わず、知っていても言わず、本当のことを言わないことが、中国で生存するための術ともなっている。これと時を同じくして、民族主義的な情緒がぽっかり明いた隙間に入り込み、簡単に煽動される。政府の意向で、国民がアメリカ大使館に行って石を投げたり、星条旗を燃やしたりする。共産党に欲しいのは「順応型国民」と「暴動型国民」の両方であっても、決して人権というものが、保障される国民ではないのである。文化修養は素質を高める根本であり、中国建国以来数千年、孔孟の道は人々に礼儀綱紀を設けさせた。「之を棄てるが如きは、則ち人皆主無く、是定まる所を知らざるに非ず、進退守る所を知らず…是大乱の道なり」。[10]

共産党が唱える「闘争の哲学」の目的は大乱を作り出し、動乱を絶やさず、一党独裁の教主の地位を樹立するためにある。一つの党の思想で全国民を統治し、政府・軍隊・新聞・テレビ局は、全て共産党の行う暴政の道具となっている。共産党が中国にもたらした災厄は、すでに手の施しようがなく、今はもはやそれ自身の滅亡の危機に直面している。

共産政権解体後、天下大乱になると考える人もいる。共産党の代わりに誰が中国を支配するかと心配する。中国五千年の歴史の長河の中で、共産党の55年の統治は一瞬の出来事に過ぎない。僅か55年でも、伝統的信仰と価値観は徹底的に壊され、古来の倫理道徳と社会体系が解体した。人々の思いやり・協調は、闘争やそれがもたらす恨みへ転化した。天地自然への畏敬は、思い上がった「人が天に勝つ」へと変わった。これらの社会道徳及び生態環境の全面崩壊で、中華民族は深刻な危機に陥った。

中国の歴史を見ると、賢明な政治家はいずれも「民を愛する」、「民を豊かにする」、「民を教育する」ことを政府の基本としている。人間は誰しも善の心を持っており、政府にはそれを引き出す義務があるとも言える。孟子曰く「民の道と為すは、恒産あれば恒心あり、恒産なければ恒心なし」[11]であり、裕福にしようともせず、国民に教えることは現実的でなく、民を愛することもなく、罪のない人の命を奪うのは暴虐である。

中国五千年の歴史の中、仁政を行った政治家は少なくない。古代には、尭舜、周朝の文帝・武帝、唐の太宗、清の康煕、乾隆帝など、これらの皇帝は皆「王道を行い」、「中庸を保ち」、「平衡を求める」という模範である。仁政の特点は、有能な人が採用され、言論の自由を与え、睦みあうことを説き、民は、礼儀・法律を遵守し、安らかに暮らし楽しく働く。天下の趨勢を観るに、興亡は個人の定めるところではなく、盛衰はいわれのあることである。共産党なき日には、人の心に祥和がもたらされ、誠実・善良・謙遜・寛大となり、国は豊かさに満ち、真の栄光を取り戻すことであろう。

共産党についての九つの論評』タイトル:

[1]銭伯城、《東方文化》、第4版、2000年

[2]高崗(Gao Gang)と饒漱石(Rao Shushi)、ともに元中国共産党中央委員である。両氏とも1954年の権力闘争で失脚し、「党を分裂させる陰謀」として、党から追放された。 胡風(1838-1896)、学者、文学評論家で、中国共産党の教条的な文学政策に反対し、1955年共産党から追い出され、14年間もの間、監禁された。

[3]1951年から1952年まで、中共は「三反」、「五反」の運動を開始した。名目は党や政府および大規模組織内部の汚職腐敗、浪費と官僚主義を徹底的に取り除くためであるが、実際は党内の粛清及び資本家の財産を略奪することであった。詳しくは第七評を参照。

[4]1956年、ハンガリーの人々が政府に対して蜂起し、政府関係施設等を占拠、政策や方針を実施した際、ソ連は2度に渡り軍事介入(ハンガリー事件)をした。

[5]魯迅(1881-1936)、一般的に中国白話文学の創始者と言われている。そのほか、著名な翻訳家と言われている。左翼作家として魯迅は中国文壇史に重要な地位を有し、彼の作品は多くの中国青年に深い影響を与えた。同氏は1909年、日本仙台医学院を卒業後に帰国し、北京大学の教員を務め、同時期から執筆を開始した。

[6]玉皇大帝、和海龍王、ともに中国神話物語の人物である。玉皇大帝は、通常、庶民に「天宮祖」と呼ばれ、天上の統治者であり、町の神社に祭祀される重要な神の一人である。 海龍王は四海の統治者であり、四海はまたそれぞれに異なる竜王によって管掌される。海龍王たちは水晶宮に住み、エビの兵と蟹の将が左右に付いている。海中の生物を統治するだけでなく、海龍王が風を吹かせ雨を降らせる本領を有し、説によると東海竜王が管掌する領土は4人の龍王の中で最も大きいということである。

[7]彭徳懐(1898−1974)、共産党の軍事及び政治指導者、朝鮮戦争おいて中国人民志願兵司令官を務め、1954年9月、政務院副総理兼国防部大臣及び国防委員会副主席に就任、1956年、中国共産党第8期中央政治局委員として選出された。1959年の廬山会議にて「大躍進」及び民衆公社化運動に批評し、毛沢東と異なる意見を持ったため、免職された。

[8]趙高(生年不詳、210BCに死去)、秦朝の宦官で、秦始皇帝の崩御後、丞相の李斯および秦始皇帝の次男の胡亥とともに聖旨を捏造し、太子扶蘇に自殺するよう命令し、胡亥を皇帝に即位させた。その後、趙高は胡亥と対立し、ある日、趙高は一匹の鹿を王城に入れこみ、公然とこれが馬であると称した。その場の朝臣の何人が異議を唱えた。趙高はこれらの者を政治的な反対派であると考え、彼らを罷免した。

[9]大興虐殺事件(The Daxing Massacre)、1966年8月に発生した。当時、北京は政権変換時期にあり(元北京市党委員会のメンバーが下ろされ、新たな党委員会が結成されたばかり)、時の公安部長の謝富志(the Minister of Public Security、Xie Fuzhi)は公安局の会議で、北京公安局は紅衛兵(Red Guards)反「黒五類」(black five classes.)運動を阻止しないようにと発言した。この発言は早くも北京市に属する大興県公安局に伝わり、大興県公安局は直ちに大興県「黒五類」を屠殺する計画を立てた。

[10]《康有為政治理論集》(1981)から出典、康有為(1858−1927)は清末の重要な政治改革者である。

[11]《孟子》から出典。