28年前中国の軍隊が北京の天安門広場で大規模民主化デモに参加した大学生や市民らを武力弾圧した「六四天安門事件」。中国政府は当初「死亡者は一人も出ていない」と発表し、その後「死者200人余り」と修正した。英国政府が最近、当時中国上層部の信頼できる情報源から入手した機密文書を公開した。それを閲覧した香港メディア「香港01」は、文書には死者は少なくとも1万人に達したとの記述があった、と報じた。
イギリス政府の文書保管機関、英国立公文書館(TNA)が11月、同事件に関する数千ページの外交機密文書を解禁した。
イギリスの消息筋が中国国務院当局者から入手した情報によると、国務院の統計では死者は少なくとも1万人に達する。当時、最高指導部は瀋陽軍区部隊、山西省の第27集団軍を北京に派遣した。作戦は4段階に分かれて、第1~3段階は瀋陽軍区が市民と学生を分離させる。第四段階は第27軍が学生参加者全員を射殺する、というものだった。しかし、瀋陽軍区の軍人が市民と学生を分離させている最中、装甲車内の第27軍兵士はすでに銃射撃を開始、学生のほか、市民と瀋陽軍区の軍人も多数銃殺された。
同消息筋の身元を特定できる部分はすべて黒塗りされている。ドナルド駐中英国大使(当時)は外交電報で、過去に同中国当局者からの情報はいずれも正確で、今回の情報も高い信ぴょう性をもつとの見方を示した。
事件の直後、中国国防部は諸国の在中大使館の武官を招いて、軍の現場での行動を説明する場を設けた。欧米諸国のなか、米国とフランスは招待されず、英国の武官は予定ありの理由で欠席、豪州とカナダ両国のみが参加、日本は辞退した。
いっぽう、2014年、同事件に関する米公文書も解禁された。当時、香港誌・壱週刊は中国軍部の協力者はリリ駐中米国大使(当時)に、中国政府の内部統計では天安門事件の死者が1万454人、負傷者が2万8796人と伝えた、と報じた。
六四天安門事件とは、1989年6月3日深夜から翌日未明にかけて、天安門広場に民主化を求めて集結していた大学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、軍隊が武力弾圧し、多数の死傷者を出した大量虐殺事件である。
中国政府は当時、軍が武力を行使しておらず、死傷者もいないと主張したが、後に200人あまりは流れ弾に当たって死亡したとした。インターネットでは事件に関する情報はすべて規制されており、当時の学生は暴徒と定義され、国民のほとんどは真実を知らない。
「香港01」は同記事を掲載当日に取り下げた。
(翻訳編集・叶清)
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