知られざる迫害 文化大革命に翻弄された原爆開発者らの運命

2017/10/09
更新: 2017/10/09

今年2月、中国科学院院士・任新民氏逝去のニュースが各メディアの目立つ位置に記載された。任氏はミサイル開発の立役者だった。中国では、1964年10月16日に初の原子爆弾の核爆発に成功し、それから1966年10月27日に初の核弾頭搭載の地対地ミサイル飛行爆発、1967年6月17日に初の水素爆弾の空爆実験、1970年4月24日には初の人工衛星の打ち上げなど、次々と成功させた。

中国共産党政権発足後、これほど短期間で核開発の技術を手に入れたのは、旧ソ連の援助以外に、海外から帰国した任氏ら23人の科学者による貢献が大きい。

だが、この23人の多くが文化大革命中、共産党からの迫害を免れなかったのは、知られざる事実である。

ミサイル、航空材料専門家の姚桐斌は、集団リンチで死亡

姚桐斌氏はミサイル、宇宙航空材料の専門家で、中国航空材料研究所の創立メンバーの一人でもあった。若き頃は英バーミンガム大学の工業冶金学部に留学し、1951年に博士号を取得後、1954年に西ドイツ工業大学で冶金鋳造研究員兼助教を務めた。

イギリス留学中、中国共産党の地下組織「中国科学者協会イギリス分会」および「中国留学生総会」に参加した姚氏は、西ドイツで共産党の思想に感化され、その後スイスで共産党員となった。1957年末に帰国後、国防部第五研究院一分院の材料研究室研究員、主任、材料研究所所長を務め、主にロケット材料の研究開発に従事していた。

姚氏などの技術者の努力が実り、1961年から1964年の間、500項目もの研究プロジェクトにおいて成果を収めた。ちょうどソ連が中共への技術提供を中止し、ソ連との関係悪化に悩んでいだ共産党を大いに喜ばせた。姚氏の成果物の約80%はロケット開発に活用されていた。

しかし、当局の指示にひたむきに従い、国の技術進歩に全力を傾注してきた彼は、自身が崇拝する「毛(沢東)太陽」の発動した文革中、残酷な暴行で命を失ったのだ。

文革が始まってすぐ、海外帰国者との理由で姚氏は批判の標的となった。1968年6月8日、姚氏は暴行されて亡くなった。妻が帰宅した際、姚氏の遺体はすでに硬くなっていた。白いシャツには至る所に血痕が滲んでおり、ズボンは血痕と泥まみれ、片足は裸足状態で、愛用の鼈甲メガネもみあたらず、顔はあざだらけだった。「見るに堪えない凄惨な光景だった」と、妻はのちに述懐した。

事件当日、紅衛兵が姚氏の自宅に無断侵入し、彼を平手打ちして階段から引きずり下ろし、凄まじいリンチを加えたという。「一人は彼の陰部を思いっきり蹴りながら、大声で罵声を浴びせた。その声で更に多くの悪党が駆けつけてきたんだ。彼らは棒で夫の頭部を猛撃して、頭から瞬時に血が噴出し、夫はそのまま倒れた」しかし、彼らの暴走は止まらず、意識不明の姚氏を悪党の「本部」に引きずり込んだが、姚氏の異変に気付き、慌てて彼を自宅前の歩道に運び、そのまま置き去りにした。

姚氏の隣人と家政婦が直ぐに姚氏を病院に運ぶよう求めたものの、病院側に「帰国した帝国主義のスパイだ」との理由で治療を拒否された。頭部に重傷を負った姚氏は、46歳で自宅で息を引き取った。暴行を加えた紅衛兵は罪を追究されることはなかった。

文革終結後の1978年、共産党当局は姚氏に「烈士」の称号を与えたが、今更「栄耀」ほど皮肉なものはない。

「中国原爆の父」鄧稼先氏も、批判から免れず

 

中国では、鄧稼先氏と言えば、すぐに原爆と連想される。西南連合大学を卒業した彼は、1948年にアメリカで物理博士号を取得し、帰国後の1956年に共産党に加入した。核工業部第九研究院で院長として、原子爆弾、水素爆弾の研究開発を任され、原爆理論を完成した上、核実験の爆発模擬実験を主導した。その能力の高さから、しばしば「原爆の父」である米物理学者ロバート・オッペンハイマーと同様に語られた。生前には計32回の核実験に参与し、15回も新疆ロプノールでの実験を仕切った。しかし、適切な防護措置を受けられず、長期にわたり被曝していたため、鄧氏は1986年、直腸がんを患い命を失った。

鄧氏とその家族も文化大革命の闘争から逃れることはできなかった。1971年、文革の嵐は研究院にも襲い掛かり、鄧氏らも闘争を受ける身となった。「英語を話せる者はアメリカスパイ、ロシア語を話せる者はソ連スパイ」など言われのない罪で彼は批判された。鄧氏の妻で北京医学院教授の許鹿希氏は、「黒幇分子(悪徳分子」として大勢の前で批判を受け、液体のりを全身に塗り付けられ、精神状態が崩壊寸前だった。帰ってこない妻を探しに行き、この惨状を目の当たりにした鄧氏は打ちひしがれたという。

鄧氏を述べる上で、彼の弟子の中で最も優秀な趙楚氏にも触れたい。核開発にある重要な函数方程式を解けたのも趙楚氏だったという。彼は原爆製造の核心的な計算を誰でも簡単に調べられるよう、何ページもの資料を作り込んでおいた。資料の一部は、西北部の荒漠にある核実験基地の密室に厳重に保管されていた。

文化大革命勃発後の1969年、趙楚氏は批判の対象となり、あの密室に監禁された。三日間米一粒、水一滴も口にすることを許されなかった彼は、心血を注いで作成した資料の一部を飲み込み、万年筆のぺン先で動脈を切り自ら命を絶った。

愛弟子の訃報を聞き、悲しみに暮れた鄧氏は、手元にある資料を趙楚氏のお墓の前で燃やした。この日から、原爆製造のカギとなる最も重要な部分を失うことになった。

1986年、鄧氏は臨終前、共産党幹部に例の資料の作成を懇願された。

「目を閉じれば、趙楚の血が映るんだ。あるまじき勢力の手に、壊滅的な力を託すとは、人類に対して罪に等しい。いまさら悟っても時はすでに遅し」鄧氏はただ後悔の念が募るばかりだった。

参考記事:文化大革命に翻弄された一家の物語

(つづく)

                                        (大紀元ウェブ編集部)