学生を後ろから襲った戦車 六四天安門事件の体験者が語る

2016/06/06
更新: 2016/06/06

1989年6月4日、北京の天安門広場で、民主化運動を軍が武力鎮圧した「六四天安門事件」が起きた。中国共産党政権はこの日、天安門広場に集まった学生を中心とした丸腰の一般人に、戦車で無差別に攻撃した。政権に影響する「敏感な」過去の事件として検閲されているため、中国国内では事件の事実を知ることができない。現在の中国の若者は、文化大革命のように、事件のことを全く知らないという。

天安門事件の体験者は、写真や著書で当時の様子を生々しく伝える。中国法政大学元講師の呉仁華さんは、事件で何が起きたかを伝える本を台湾で出している。2007年に『天安門血腥清場内幕(血塗られた天安門の内幕)』を出版。2014年5月、「厳戒部隊」について加筆した増訂版を出した。他にも『六四事件中的坦克第一师(六四事件の戦車第一師団)』を執筆している。 

天安門広場の学生と市民を武力で鎮圧することは、当時の軍委主席・鄧小平が決定した。当時の共産党総書記で軍委副主席を兼任する趙紫陽氏は鎮圧の命令書へサインを拒んだため、党の総書記や政府と軍のすべての職務から外され失脚し、2005年に死去するまで軟禁生活を余儀なくされた。

呉さんの著書を読めば、上官から進行命令を受けた戦車隊が、天安門広場に進入して大虐殺が繰り広げられるまでの一部始終を知ることができる。下記は、呉さんの著書の一部抜粋して抄訳したもの。


 学生たちに催涙弾発射

中国政府は事件当時、民主化運動を鎮圧するため北京に20万以上もの軍隊を投入した。このなかには第38集団軍の戦車第6師団と天津警備区の戦車第1師団が招集されていた。

6月4日早朝6時5分、厳戒部隊の司令部から出動を命じられた戦車第1師団が新華門付近になだれ込み、辺りにいた学生らを追い払うと、8台の戦車が4列に分かれ、2台ずつ揃って前進していった。西長安街から西へ約1キロを過ぎたところでは、市民や学生数百人が地面に横たわり、十数メートルにわたる「人間バリケード」を作っていたが、戦車は減速することなくそのまま前進した。100m、50m、30m…戦車隊は確実に人間バリケードに近づいていったが、市民や学生らは微動だにしなかった。戦車は、ギリギリのところで速度を落とした。

当局は軍事用催涙弾を使用することを決めた。戦車隊はゆっくりと群衆を取り巻き、新華門付近から追い払っていった。戦車隊が天安門広場から出発してから、わずか30分間の出来事だった。

戦車隊は新華門付近の群衆を追い払い、なおも西長安街から西に向かって高速で移動しながら発砲したり軍事用催涙弾を発射したりしていた。そして学生や市民らを電報大楼の西側へと追いやると、戦車の一部が六部口で検問を張り、残りが新華門の前で一列に並んだ。

 帰路につく後ろ向きの学生を襲う戦車

戦車隊が新華門西側からほど近い六部口に差しかかった時、天安門広場からそれぞれの大学に帰ろうとしていた学生の隊列とかちあった。数千人の学生が校旗を掲げ、自転車道を西に向かって歩いていたところだった。すると戦車隊は広い自動車道ではなく、彼らのいる自転車道に進路を向けた。学生たちはまさか戦車が背後から自分たちをひき殺しに来るなどと考えてもいなかったため、多くの人が逃げ遅れ、多数の死傷者を出す結果となった。

天安門事件で子どもを亡くした親の会「天安門の母」の調査によると、六部口だけで、死傷者は14人に上り、13人は名前・年齢・所属・けが状況・死亡原因など詳しい状況が突き止められている。書籍にはこの時の様子が記されている。

「あまりにも悲惨なこの様子に言葉を失った。悲痛な叫び声が響き渡った。むごたらしい姿に変わり果てた学生たちの遺体が、歩行者道のあちこちに転がっていた。その道路から2メートルほど離れた場所にあった遺体の頭部には、大きな穴が開いていて、なかから崩れた脳みそがまるで潰れた豆腐のように露出していた。そして脳みそと血が混じり合って、1メートル先まで噴き出した跡があった。歩行者道の脇には4人の遺体が横たわっていたが、そのうち2人は自転車と一緒に戦車に轢かれており、体が自転車に食い込むようにつぶされていた」

 虐殺の証拠として 学生が学生の遺体を収用

「助かった学生の一部は泣きながらも、殺された仲間の遺体を運び去るかどうかを相談していた。厳戒部隊に遺体が奪われて、虐殺の痕跡が消されてしまうことを恐れたからだ。市民の助けを得て、数人の学生が仲間の遺体を一体ずつ、西長安街奥の胡同に運び込んだ。1人の自営運転手が5人の遺体を政法大学まで運ぼうと提案した。厳戒部隊が一般市民を虐殺した証拠を法的に残すためだった。学生らはこの意見に同意し、5人の遺体を運転手の小型トラックに乗せた。そのうち1体は、自転車と一緒に押しつぶされた学生だった」

「政法大学の東門では、教師や学生数千人がトラックの到着を待っていた。辺りは静まり返り、ただ泣き声だけが響き渡っていた」

そして最後にはこう記されている。「六部口の惨劇は、天安門事件の残虐さを最も色濃く映し出している。この大虐殺を指揮したのは羅剛という人物で、狂ったように人間を押しつぶした戦車の番号は106だ。羅剛はその後戦車第一師団副師団長に任命され、内モンゴル軍区の副指令官に昇格した」


中国共産党政権が27年間「六四天安門事件」の真相を徹底的に封鎖し、恐怖と嘘で人々を洗脳した結果、多くの中国人は事件の真相を分からず、特に若い人達のほとんどは「六四天安門事件」という言葉すら知らない。

 

(翻訳編集・桜井信一/単馨)

 六四天安門事件の他の写真を掲載。一部ショッキングな写真あり。

(ネット写真)
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