大水害を逃れた江西省カン州市 宋代の排水システムで

2010/07/19
更新: 2010/07/19

【大紀元日本7月19日】大河の堤防が決壊して10万人が避難。6月末、江西省各地は、歴史的な大水害で深刻な被害を受けた。ところが、6月21日、洪水のピークが江西省第二の都市・贛(カン)州市に達した時には、次のような光景が見られた。子供は城門入口の池の中で釣り遊びをし、商売人は滔々と流れる水辺でのんびりと商売をしており、水があふれ災害になるのではと心配している様子ははまったく見られなかった。市内では冠水はなかったし、一台の車も水に浸かることはなかった。

同時期、贛州市からあまり離れていない広州や南寧、南昌などの多くの近隣都市ではいたるところで冠水し、市民から「東方のベニス」などと皮肉られていた。

贛州市を洪水の被害から護ったのはほかでもない、同市の都市排水システムのおかげだ。広東省の関連部門はメディアの取材で、都市排水システムの働きが最もよいのは江西省贛州市だと評価している。「福寿溝」と呼ばれるこの排水システムは、実は900年前の宋の時代に造られたものだ。

冠水のない都市

中国青年報7月14日の報道が、「福寿溝」の詳細について紹介した。

福寿溝は、北宋時期に水利専門家の劉彝(リュウイ)が指揮して造ったもので、稀に見る精密な古代都市排水システムである。900年以上も風雨にさらされているにもかかわらず、今なおスムーズに流れており、市民たちの日常排水の主要通路になっている。

「なぜ、この都市は昔から水没の被害に遭わないのか」と尋ねられたお年寄りたちは皆、贛州は「浮城」でカメの形をしており、頭が南で尾が北にある。だから水かさがどんなに増しても贛州は浮くのだと答える。

同市博物館の専門家・万幼楠氏によれば、贛州が900年も冠水がないのは、お年寄りたちが話す「浮城」のおかげでもなければ、カメのためでもない。

史料によると、宋代以前は贛州も毎年水害に見舞われていた。北宋熙寧年間(1068年-1077年)劉彝という官吏がこの州の職務に就き、市街地の街道を作った。このとき、街道の配置と地形の特徴に基づき、分区排水の原則を採用し2本の排水システムを敷設した。この2本の排水溝の走る形が篆書体の「福」「寿」の二文字に似ていることから「福寿溝」という名がつけられたという。

福寿溝は全長12.6キロ。都市汚水排出、雨水の緩和、河湖の調整、池や沼との連結、湿度調整などの機能を持ち、更には池で魚を養い、沖積した土砂を有機肥料として野菜栽培に用いる生態環境循環の連鎖も作り出している。全ての排水網が縦横に走っている。

「洪水による冠水が発生しないのは、現代から見ても、かなり先進的で科学的な都市排水システムのためだ」。同市博物館の専門家・万幼楠氏によると、現在、下水道の傾斜が足りなければ一般的には取水機を使用するのだが、福寿溝は完全に地形の高低を利用し自然の流れを利用した方法で都市の雨水、汚水が自然に河に排水できる仕組みになっているという。

そうはいえ、毎年雨期には、河の水位が排水口より上昇し、逆に河水が都市に流れ込む事態が発生していた。そこで劉彝は、排水口に水圧を利用した12ケ所の水窓を作った。河の水位が低い時には下水の水圧を利用して水窓が開かれ排水し、水位が窓よりも高い時には河水の水圧を利用し水窓は閉じられ、水の逆流を防ぐというもの。これと同時に窓内の溝の流れと慣性力を良くするため、劉彝は断面を変え、傾斜を大きくするなどの方法を採用している。

今まで、福寿溝は旧市街地住民およそ10万人の汚水の排水機能を担ってきた。専門家によると、現在の区域内の雨水と汚水処理量がたとえ3、4倍に増えても対応できるし、冠水も発生しない。「古人の将来への見通しに感心する」と専門家たちは言う。

後人の破壊で消失しつつある池

だが、古人の展望性は後人の破壊性には及ばない。

劉彝の当初の設計理念に基づけば、福寿溝は贛州の全排水・洪水防止システムのごく一部に過ぎない。宋代に築かれた堅固な城壁が一番の洪水防止堰であり、城内には更に数百の池が存在した。劉彝は福寿溝と場内の池を繋ぎ、重要な調節、貯水作用を発揮させていたと、万氏は説明している。

「長江流域の鄱(は)陽湖、太湖、巣湖といった湖も似たような作用を果たしている」。池は都市が豪雨に見舞われた時に、雨水の容量を調節し、街道が水浸しになる面積や時間を減少させていると万氏は述べている。

だが、古人は後人が池を埋め立てて家を建てるなど、思いもしなかったであろう。

「この数十年間、私たちは毎日池を保護しようと呼びかけているが、49年に政権ができた当初、誰も池を保護する意識はなかった」。「今は更にひどくなり、お金だけ目当てにして、市内の土地は全て不動産開発に使われている」と、現地のある文化遺産保護専門家はなげく。

北京大学地理学科の彪(ひょう)長春教授は早くから、贛州にある池の重要な意義に気づいていた人物の一人である。彪教授は贛州園芸場から得た資料により、1958年に園芸場にあった400畝(1畝は6.667アール)以上の池が1981年初めにはわずか130畝あまりに減少したと述べている。市区のその他の村も、管理する池の多くが整地されてしまった。

一旦破壊された元の排水システムは、たちまち都市排水上に苦境をもたらした。ある池を埋め立てて5階建ての住居用の建物を建設したところ、周囲の地区の排水出口が無くなったため、付近の家屋が浸水を受け倒壊してしまった。レストランの裏にある池をつぶした後、大雨が降った時に厨房に1メートル以上も水が溜まって営業できなくなるなどの問題が起きた。

1984年、彪教授は、贛州市の池に関する論文を発表して、池の破壊を止めるよう提案した。学生たちと贛州に数ヶ月滞在して企画書を作成し、新都市は旧城の外側に建設することを提言したが、結局当局に受け入れられなかった。その後の26年間で「貯水池はわずか2ケ所だけになり、町を護っていた堀も埋められた」と、彪教授は悔しさを隠せない。

「都市は水がなければ活気と活力を失う」。貯水池を埋め立てれば福寿溝も死んでしまうと彼は考える。

「贛州の排水システムがあれば堤防の決壊はなかった」

「自然の情勢に応じて有利に導く」という古人の考えと異なり、今の中国では人々は科学の力で大自然を改造しようとしている。贛州の旧城門には密封性の高い洪水防止の鉄門が設置され、新市街地の下には更に太い排水管が埋められた。揚水ポンプ・ステーションの中には馬力の更に強い取水機が設置されている。たとえ池が無くとも、たくさんの電力を使えば水を送り出すことができるというわけだ。

だが、ある市政府職員は残っている池の機能を高く評価している。今年数回の大雨の時、雨水が先ず池に溜まり、その後揚水ポンプが池から河に水を流した。そうでなければ排水は間に合わなかっただろうと話している。

池は減少しているものの、他の都市に比べれば贛州の排水システムは優れているということには違いない。

洪水が贛州に押し寄せたとき、あるネットユーザーがカメラを持って城壁の上から撮影した。彼の目に映ったのは、3600mにわたる宋代の城壁であった。しかも、古城の下には新式の防水の水門がある。

「こっちの都市が洪水で水没、あっちの都市が豪雨で川の堤防が決壊。このようなニュースをよく耳にするが、贛州のような堅固な壁があれば、今回のような堤防の決壊もなかっただろう」と、このネットユーザーは掲示板に記している。

(翻訳編集・坂本)