【大紀元日本6月12日】「大衆化時代の大学生は、もはや社会のエリートを自認することはできず、一般就労者としての心理及び位置づけをもって就職の選択及び競争に参加すべきである」、中共中央の教育部大学責任者によるこの言葉が、これまで国内において極めて大きな反響を呼んでいる。しかし、議論の焦点となっているのは次の点である。大学生を養うコストが近年高止まりする一方で、賃金待遇は、「一般就労者」のそれへと傾斜し始めている。中国の大学がもたらしたのは、「学費の高騰、就職の大衆化」という怪現象であり、これが、「学問無用論」の裏付けになっているのではないだろうか。
大学卒業生の総体的な就職情勢は、連年に渡って深刻である。各種(専門)学校が生徒の拡大募集を続けるため、大学生、高校生、中学生の就職難という言葉が随所に見られるところである。中国メディアの報道によると、これまで2年間の卒業生の実際の就職率は55%近くにとどまっており、毎年卒業生の多くが就職できず、この数字は下落の趨勢にある。「学生の就職難」は、各種メディアの誌面を飾る文字であったものが、鮮明な社会問題へと変化しつつある。
2006年中国の大学卒業生の人数は、413万人と推計されるが、これは、2005年比で75万人の増加である。そして、大学生の就職難という背景のもとで、教育部当局は、大学生が基準を下げ「一般就労者」として就職するよう勧告している。
中国が国際社会に調和していく中で、大学生もまた、次第に、ありふれた一般就労者の一人になりつつある。個別の大学において、エリートを自認し、高賃金でないところには就職しないという者がいることは否定しないが、大学生大多数の就職に対する希望は既に非常に低くなっており、社会において平均的な賃金を得ることが、多くの者にとっての理想となっている。
ある資料によると、2005年における高等学校卒業生の平均月収は1588元で、2003年の水準に比べて37元高くなっている。しかし、同年において、全国における都市の部門に勤める従業員の平均年収は、18405元で、2004年に比べて2381元増加している。他方、広州における本科卒業生の平均月収は、1200元前後であるという。大学卒業生の賃金は、おおよそ「ブルーカラー」の平均賃金に並んでおり、しかも、上げ幅は後者に大きく劣っている。このことから明らかなのは、実際の大学生の大多数は、「一般就労者」のランクで就職をしているということである。
しかし、教育部の責任者が、大学生の就職難の問題について回答した中で、「大学生は一般就労者にランク付けるべき」としたことは検討に値する。これは、ある意味で、「低賃金、低い社会的地位」にある仕事を指しているのではないだろうか?また、エリートと比較して「一般就労者」とは一体どのような概念なのか?彼らにとって合理的な賃金水準はどれだけなのだろうか?
あるネットユーザは、教育部責任者の発言を評して、「まるで人ごとである」と指摘している。現在の大学生は、教育部当局が想像するほどに気高い存在ではないことは明らかである。ある大学の本科卒業生は、月給がわずか1000元の就職口でも長蛇の列をなしている。この、どこが高いというのか?また、大学生の就職に対する期待値がたとえわずかに高くとも、それは心の中においてのみである。10年ほど苦労して勉学に励み、未来に対して憧憬を持つことが正常なことではないといえるのだろうか?政府が、もし、既にこれだけ低くなっている就職の期待値を更に下げようとするならば、これを口にすることに堪えられるのだろうか?
亜州時報のネット記者は、広州の有名大学2校を取材した。取材を受けた卒業生は専門が比較的社会に人気があることから、級友のほぼ全てが就職を決めたという。しかし、競争圧力が大きく、面接試験に際しては、皆、条件を口にすることができず、分相応の待遇であれば可としていた。賃金報酬について質問した際、取材を受けた学生は、月収2000元であれば問題はなく、すべての判断は、今後の仕事の状況次第であると答えていた。しかし、ある学生によると、有名大学はともかく、広州にある他の無名大学にいたっては、一クラスの就職率が半分に達していないという。こうした状況にあっては、成績が良い者は学問を続けるほかなく、さもなければ、自分の価値を下げて、専門学校卒業生と同じスタート地点に立つことになるという。
広州「信息時報」の評論は、こうした「大学生のランクは一般就労者」説は、その意図の有無にかかわらず、現在の大学教育において存在する問題の一部を隠蔽し、人々の関心をそらしてしまうきらいがあるとしている。実際、現在の大学生の就職難について、その主たる病因は、大学生の就職心理の問題にあるのではなく、中共中央教育部の目標、位置付け、専門の設置及び教育の問題にある。言い換えれば、教育主管部門及び各教育機関は、転嫁できない責任を負っているのである。しかし、「大学生のランクは一般就労者」説は、大学生の就職難を、大学生のエリート意識に帰着させているに等しく、大学教育自体に内在する問題を淡化、隠蔽してしまうのである。これが、重きを避けて軽きに就くやり方なのは明らかである。
このほかに注意すべきこととして、大学教育が高学費であることにより、人々は、これが、一般就労者の養成機関ではなく、社会エリートの養成機関であるとの印象を持つ。一家庭が一人の大学生を養う場合、往々にして、子供に家庭の全てを注ぎ込み、高いコストを負担することとなる。しかし、子供が大学を卒業する時になって、これだけの高コストを支払って育てたのが一人の一般就労者に過ぎなかったことを告知されるならば、無数の保護者が失望を感じるのは自然なことである。したがって、中国大学教育の目標が一般就労者の養成であるならば、こうした高学費の徴収、ひいては乱収費(理由をつけて様々な費用を徴収すること)を行うことは、全く説明が通らない。この場合、大学教育は、「大学生は一般就労者」説に応じて、教育費用も大衆化すべきなのである。
大学教育が消費の一種であることは疑いないが、高消費の一種ではない。とりわけ、就職難という現状の下では、教育費用は、大衆の受容能力に対応したものでなくてはならない。しかし、実際の現状として、現在の全国大学生に係る学費の平均値は5000元前後に、住居費は1000元前後に上昇している。食事、衣服、書籍等の方面の支出を加えると(いわゆる乱収費は含めず)、各大学生が一年あたりに負担する平均費用は1万元前後で、4年間では4万元前後が必要となる。しかし、中国都市住民の年収は1万元を超えておらず、農村住民の年収は、わずかに3000元を超えている程度にすぎない。調査によると、費用が比較的高い有名大学において、農村の学生の割合が減少する趨勢にある。現在の費用水準からみて、大学教育は、社会の上層部のみが支出できる日常的な消費といってよい。一般就労者の大衆にとっては、正真正銘のぜいたく品である。
現在、2006年卒業の4年生大学の本科生、専科生に対して実施した調査によると、就職に関する契約を済ませた大学生のうち47.1%の契約月収は、1500元以下であった。「大学生として、勤務先に求める報酬はどれくらいか」という問いに対しては、41.5%の学生が、2000元~2999元が比較的適切であるとし、34.7%が1000元~1999元を選択したが、3000元以上が適切であるとしたのは、わずか21.5%であった。大学生の75%は「圧力の主要な来源が就職」と認識、約半数は「卒業後の前途に困惑し目標がなく」、41.7%は「現状についてあまり考えていない」、「将来に明確な目標と自信を持っている」は、わずか8.3%であった。
大学生の就職問題を楽観的に評価する場合、中共中央は、大学に行くことが、青年学生にとってどれだけの夢、理想であり、多くの農村の父母が、大学に行くことが、子供が自信の運命を変える得がたいチャンスであるとどれだけ考えているかについて、思い致すべきである。しかし、この夢と理想が現実と交錯するとき、「大学生は一般就労者に位置づけるべきである」という中央教育部当局の言葉は、残忍なまでに身に浸みてくるものであるといえる。大学生がエリート意識を放棄し、社会の中間所得階層へと回帰していくことは大きな趨勢となっている。しかし、だからといって、様々な問題に蓋をする口実にはできないし、また、大学生が一般就労者になりつつあることについての唯一の理由にはならない。
これまで見てきたように、教育における高消費と就職難は、貧困階層の圧迫という点において、既に悪い結果をもたらしている。低いリターンという残酷な現実は、子供を大学で学ばせ、その運命を変えさせようという多くの家庭の願いを既に破壊している。大学生の就職における位置づけを「一般就労者」とするならば、まずもって解決すべきなのは、高騰した学費であり、大学生(の社会的地位)とともに、庶民的な価格に戻すべきである。さもなければ、社会の関心をそらす如何なる言い振りも、肝心な点を避ける謬論となり、「学問無用論」台頭を促すこととなるであろう。