中共退役軍人が暴露、捕虜を生きたまま標本に?

2005/11/06
更新: 2005/11/06

【大紀元日本11月6日】大紀元時報編集部に4日、「中共軍部退役幹部」と署名された投書が送られてきた。投書によると、1949年、中国旧華北医科大学(現・ベチューン医科大学)で、中共軍は、国民党捕虜を生きたまま人体標本にした事件が起きたという。投書の原文は下記の通り。

1949年、中共軍が太源市を攻め落とした当時、旧華北医科大学(石家庄市西駐屯兵舎および鎮頭村)の政治委員・耿毓桂(ゲン・ユグイ)氏は、大学で人体標本を製作するために、太源の参戦部隊に国民党の捕虜(一説によると200人)を要請した。すべて頑丈で力強い青年や壮年だった。

ある日、耿氏らは身体検査の名義で捕虜たちを一人一人呼び、劇薬を注射した。捕虜らは即死、遺体はすぐに隠された。最初は順調だったが、ある捕虜は呼ばれた者が一人も帰ってこなかったことを不審に思い、逃げてしまった。近くの麦畑で隠れていたが、捕まれて結局殺されてしまった。捕虜はすべて、標本にされた。同学校は後に天津を経て、長春へ移転し、何度も改名して、現在は「ベチューン医科大学」(吉林省長春)と呼ばれ、標本も移された。

共産党が俘虜の優遇や人道主義、負傷者の介護などを叫びながら、大量に捕虜を無残にも殺し標本にしていた。当事者らもこの事情が漏れたら、騒動になるとわかっていたので、関係者に秘密厳守を命じたが、1951年の「三反運動」の中で、「自白の強要」されて、この学校のある司務長は鎮圧の対象にされて、刑罰を耐え切れなかったところ、上部に手紙を書いて告白した。

事件の重大性を鑑み、主犯格には銃殺刑の判決が下され、刑を執行するように上部から指示があった。耿氏は慌てて毛沢東に手紙を書き、自分は毛沢東に追随してきており、功労はないながらも苦労はしてきた、この事は党の仕事のためであったと助けを求めた。耿氏は最終的に一命を取りとめ懲戒免職で済み、他の関係者も党内処分だけで済んだ。

華北医科大学(軍部隊編制)の主要責任者(当時):

銭信忠・華北軍区衛生部長兼校長

耿毓桂・政治委員

時修直・副政治委員

陳淇園・教育長

康克・教務処長

遅複元・教務処副長