阿マリアさんが中国共産党によるチベットでの暴行を語る

2005/06/21
更新: 2005/06/21

【大紀元日本6月21日】フィラデルフィア第5回九評シンポジウムが4月30日、《大紀元》フィラデルフィア支社および「自由鐘論壇」の共同主催でフィラデルフィア華人カトリック教会(Holy Redeemer Chinese Catholic Church)にて行われた。「中国宗教迫害調査」発起人・李世雄氏、ニューヨーク自由チベット学生組織責任者=阿マリア・ルーベンさん、およびハーバード大学メイスン学者の張而平氏が招かれ、講演した。下記はチベット民族衣裳を身にまとったルーベンさんの講演内容である。

皆さん、こんにちは。

チベット宗教が受けた迫害を話す前に、私はチベット人民の信仰についてお話ししたいと思います。チベット仏教は大乗仏教であり、禅宗の一種です。約1200年前にチベットに伝わり、今日、チベット人民の生活のあらゆるところに根付いています。チベット人民はとても敬虔で、毎日お祈りをします。あなたはチベットで老年の男性と女性がいつも数珠を数えながら祈る姿をよく見かけるでしょう。近代の科学技術を駆使する最近の若いチベット人にしても例外ではありません。私のある友人は、私のコンピューターが壊れたと聞くと、「先ず21回お経をあげてから、コンピューターを立ち上げるように」と提案してくれました。

1949年、中国共産党の軍隊がチベットに入ってからすべてが変わりました。彼らは最初からチベット仏教をものともせず、兵士達はラマ僧を縛り、口の中に布を押し込んで、でっち上げの罪状が書かれたものを首に掛け、彼らを殴りました。更に、兵士達は殴り倒したラマ僧達に向かって大小便をしました。また、一生の禁欲を誓ったラマ僧と尼僧達に表通りで互いに性交することを強迫しました。若いラマ僧には銃で自分の教師を殺すよう強迫し、若者には両親を殺害するよう命令しました。殺人を断わった人は銃殺され、殺害に参与した人も結局は銃殺されました。

古くからチベットには6,200の寺院と宗教の聖地がありました。これらの聖地は宗教の場所でありながら、学校と医学院でもあったのです。しかし、中国共産党がチベットに入った時、ほとんどの寺院が壊され、最後にはたったの13ヵ所しか残りませんでした。

災難から免れた寺院も、損害はかなり大きいものでした。チベットで最も神聖な寺だと言われている大昭寺は、ほとんどブタ小屋のようになってしまいました。その他の寺も、改造されて屠畜場にされました。仏教徒は殺生を禁じていますので、神聖な建物内で動物を殺すことは最大の罪なのです。また、神聖な仏像は溶かされて銃弾に変えられました。つまり、神聖な仏像が、信仰者たちを殺すために使われてしまったのです。神聖な仏教経典は靴の下敷きに使われました。仏教と多くの東アジア文化では、足は身体の中で最も不潔なところだといわれています。彼らは、チベット人を殺戮しただけでなく、同時にチベット仏教をも踏みつけにしたのです。

1959年、チベット宗教指導者のダライ・ラマ14世は数回の暗殺の危機に晒されたあげく、亡命を余儀なくされました。当初、中国共産党はダライ・ラマの考えを変えるようダライ・ラマの兄弟を脅迫し、もし変えなかったら殺すと脅しました。またある日、中国共産党の官吏がダライ・ラマを芝居見物に誘い、ボディーガードは1人だけにするようにと言いました。その陰謀を見抜いたチベット人たちは、ダライ・ラマを普通の兵士に扮装させ、みごとにインドまで護送しました。

チベットでは、ダライ・ラマの写真、名前及び祈祷文の中でダライ・ラマについて言及することなどが一切禁止されました。

中国の憲法では信仰の自由を認めるとしていますが、これは「極端性的宗教活動」以外のほとんどの宗教信仰に限る、と言っています。しかし、“極端性”かどうかの判断は中国共産党に委ねられています。彼らはダライ・ラマの写真を持つことさえ「極端性」のある行為と見なし、無断で立ち入り捜査を行い、仏像、宗教書物を川に投げ込んだりしたのです。

ダライ・ラマがチベットを離れた後、パンチェン・ラマ10世がチベット仏教の最も重要なリーダー的存在となりました。ダライ・ラマがいなくなった後、パンチェン・ラマには新しいダライ・ラマを選ぶ責任がありました。パンチェン・ラマ10世はかつてダライ・ラマに付き添って北京に行きましたが、共産党はパンチェン・ラマを数十年にわたって拘禁し、強制的に彼を結婚させ、僧侶として誓った誓約を破らせようとしました。また、彼を共産党のために働かせようとしましたが、パンチェン・ラマは一貫して自分の人民に対する使命とチベット仏教の信仰を固守しました。彼の最後の演説の中で、彼は真正面から中国共産党を批判し、宗教、政治の自由をチベットの人民に返すよう要求しました。その後間もなくして、パンチェン・ラマ10世は病死しました。一般に、彼は毒殺されたのだという噂もありました。彼は死後、5歳の娘を残したと言われています。

1995年、ダライ・ラマはパンチェン・ラマ11世を見つけたことを宣言しました。1995年5月14日、ゲンドゥン・チェーキ・ニマという6歳の男の子が正式にパンチェン・ラマ11世に任命されました。しかし3日後の5月17日、ゲンドゥン・チェーキ・ニマと彼の家族は突然、行方不明となったのです。

ほぼ同じ時期に中国共産党は「本物の」パンチェン・ラマを見つけたと発表し、ギャンツ・ノルブという男の子をパンチェン・ラマに任命しました。これは輪廻転生を認めないと公言する政府が、パンチェン・ラマの生まれ変わりが誰なのかを見定めるという、噴出してしまうような話です。これはまるで、無神論者がローマ法王を任命するというような話です。この男の子は中国共産党の傀儡であり、代弁者に過ぎません。彼は真の宗教教育を受けることはできないでしょう。

ゲンドゥン・チェーキ・ニマ (本物のパンチェン・ラマ)が行方不明になった1年後、共産党はこの男の子と家族が“保護的後見”の下にあると発表しました。それ以来、私達は彼に関するいかなる情報も耳にすることがありませんでした。しかし数年前、ある噂によれば、最近いくつかのウェブサイトでも見られましたが、チベット刑務所の囚人がやせこけた10歳の男の子の死体がトラックに乗せられ、刑務所を離れるのを見たという話があります。その男の子はゲンドゥン・チェーキ・ニマにとてもよく似ていたそうです。

また、仏教の先生で、生涯チベットと中国の児童のために孤児院を造り、チベット文化の保存に力を尽くしてきたリンボーチェ トゥルク・テンジン・デレクさんには、公正な裁判もなく死刑判決が下されました。その後、チベット自由組織の奮闘により、やっと彼の判決が終身刑に変えられました。彼は未だに牢獄に監禁されています。

中国共産党はチベットの僧侶と尼僧達にダライ・ラマを誹謗中傷させ、政府が選んだパンチェン・ラマを認めるよう強制しました。それらに従わないものは、寺院から追い払われたりもしました。1959年以後、寺院の多くは再開しましたが、僧侶と尼僧たちが共産党の宣伝に参与することを拒絶したため、再び閉鎖を強いられました。

共産党の宗教迫害は僧侶と尼僧だけに止まりませんでした。私の美術の先生は、彼の名前を公表しないことを条件に、次のことを話してくれました。彼は9歳の時から絵を学び始め、10数歳の時にはチベットで最も優秀な画家と認められ、国家レベルの試験で上位に名を連ねました。数年後のある日、彼は友達とラサへ聖地巡礼に行ったところ、逮捕されて入獄しました。獄中、先生は強制的に両手を火の中に入れさせられ、手に一生残るような障害を受けました。これが、宗教画を描いた彼に対する懲罰でした。共産党は彼に、永遠に絵を描くことができないようにしたのです。幸いにも、彼はチベットから逃げ出すことができ、数年後には米国に来て治療を受け、現在はまた絵が描けるようになりました。

数日前、私は友人であるチベットの尼僧、綽以英を取材しました。彼女は16歳の時尼僧になり、尼僧院で3年間を過ごしました。しかし、宗教の自由はなく、宗教教育も受けられませんでした。あるのは中国共産党の政治科目の宣伝だけだったそうです。中国警察が毎日来て、尼僧院にいる彼女たちを監視していました。

1995年2月25日、忍ぶに忍べなくなった綽以英と7人の尼僧は尼僧院から抜け出し、抗議活動を行いました。そこはラサ寺院以外の聖地巡礼者たちが集まる場所でした。

尼僧達は「ダライ・ラマ万歳」、「赤色中国はチベットから出て行け」、「チベットに自由を」、「私達に宗教の自由を」などのスローガンを叫びました。抗議はたったの5,6分しかできませんでした。あっという間に解放軍兵士らが飛び掛ってきて、彼女たちは捕らえられました。留置所までの連行中、尼僧達はずっと殴られました。留置所に6ヶ月間拘留された後、「国家の安全に危害を与えた罪」で綽以英に4年の懲役刑が下されました。留置所を離れる時、彼らは彼女の血を抜き、彼女には留置所での食事代だと告げました。

留置所では、彼女は毎日苦しめられ、殴られたそうです。彼らは彼女に宗教と「自由なチベット」は存在しないと洗脳しようとしましたが、彼女は拒絶しました。食事は古臭いパンなどを一日2食分だけ与えられ、時には水さえない時もあったと言います。

冬、彼らは土の上に水をかけて凍らせ、彼女を素足のまま氷の上に数時間も立たせました。刑務所の囚人たちが彼女達の頭に1杯の水か、本を乗せて丸1日立たせたりもしました。もし物が落ちたら、彼女たちは直ちになぐられます。もし、誰かが物を落として、他の尼僧が手伝ってあげたら、2人とも殴られます。

刑務所で祈祷したり、他の人と話したり、2人で集まったり、さらには、他の人と目を合わせることなどは、犯罪行為と見なされ、棒、ベルト、電気棒でめった打ちにされます。何をするにも時間をカウントし、少しでも遅ければ殴られます。綽以英の5人の仲間はこのようにひどく殴られて亡くなりました。報告によると、ある刑務所では、100人入っても生きて出られるのはたったの4人ぐらいだと聞きました。

綽以英は単独で監禁され、時には一日 一食しか与えられず、毛布も支給されませんでした。チベットの冬はとても寒く、中は真っ暗で、その辛さは殴られるよりたまらなかったと言います。

最も恐ろしいのは、電気棒だったそうです。兵士達は時に電気棒を彼女の口の中に差し込んだり、彼女を押し倒して電気棒を使って彼女を強姦したりもしました。彼女が痛みと電気ショックで気を失うと、彼らは彼女に水をかけ、目を覚まさせて引き続き彼女を殴りました。

また、ある報告によると、刑務所では、親指あるいは手首をきつく縛って天井から吊り、棍棒、ベルト、ワイヤなどで鞭打ちにする刑もありました。

1999年2月25日、綽以英は釈放されました。その後1年間、彼女はずっと軟禁状態に置かれました。毎週共産党の警察が彼女の監視に来ました。彼女は刑務所の中で経験した事を誰にも言わないように、と念押しされました。1年後、彼女はインドに逃亡して尼僧となり、2002年4月19日、彼女は米国に来て、現在は米国に定住しています。

みなさん、これは50年前、または文化大革命時の出来事、7年前、綽以英が刑務所にいた時の出来事だと思わないで下さい。これらの蛮行は、現在も引き続き行われています。今日チベットには、数千の人々が監獄に入れられており、彼らのほとんどが僧侶と尼僧なのです。今日ここいる皆さんには、中国共産党による暴行を制止する力があります。人間として、信仰のある人として、これらの暴行をやめさせるのは私達の責任です。ご清聴ありがとうございました。

(大紀元記者・岳鵬-フィラデルフィア)
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