【大紀元日本3月9日】1972年、米ニクソン大統領が初めて中国を訪問した年に、中国当局は米国左翼の青年十数人を招いて、6週間の中国訪問を企画した。約40年後、当時の訪中代表団のメンバーで、英国在住の国際著名ジャーナリスト、中国問題の専門家ジョナサン・ミルスキー氏は、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)の取材で、当時の訪中時のショッキングな実体験を証言した。
ミルスキー氏によると、当時、一行は米国の左翼団体「Committee of Concerned Asian Scholars」のメンバーであり、中国当局の招待を受けた。同団体は、ベトナム戦争に反対するほか、米国政府に中国当局との外交関係の締結を促している。
訪中の費用はすべて中国当局が負担したという。
「メンバー全員が中国語の勉強あるいは関連の研究プロジェクトに関わっており、自分を含めて数人は台湾留学を経験していた。しかし、共産党支配下の『人民共和国』を訪れたのは全員初めてだった」
当時、同行していたニューヨーク・タイムズ紙のコラム作家、リチャード・バーンスタイン氏によれば、皆が共産党の革命ソング「インターナショナル(国際歌)」を事前にマスターして、中国でその歌声を披露しようとしていた。
ミルスキー氏は入国時の状況を語った。「(香港と中国をつなぐ)羅湖橋を渡り中国の土地を踏んだとき、感極まる私たちは抱き合って喜んでいた。『ようやく人民共和国の土地を踏むことができたのだ』。迎えに来た中国当局の代表も熱意があふれていた。『米国の友よ、ようこそわが国へ。一番見たいのはなんでしょうか』。『典型的な工場労働者の家庭を訪問してみませんか』と薦めてくれた」
翌朝、一行は広州市内のある集合住宅に案内された。見学先のお宅は「典型的な中国工場労働者の家庭だ」という。若夫婦2人に、子供2人、母親1人。2LDKで独立のキッチンとトイレ、テレビ、ラジオが揃っており、新品の自転車数台が置かれていた。ベッドの上には真新しい布団。この若い中国人男性の話では、工場の同僚も皆このような豊かな生活を送っているという。
一行からは次のような素朴な質問が飛んだ。「中国には犯罪がないというが、なぜ、窓に鉄の柵が施されているのか、自転車にはなぜ鍵がかけられているのか」。案内役の中国人幹部は、「この集合住宅はわが党が政権を勝ち取る前に建てられたのであり、当時、犯罪が氾濫していた。自転車もやはり、当時の社会の様式で作ったのだ」と話した。
ミルスキー氏は、「翌日の早朝、私は興奮し過ぎて5時に目が覚めた。中国よ、私はようやく来られたのだ」と当時の心境を語った。
彼は起きてホテルを出て、町を往来する市民の大群に混じって、散策しはじめた。そのうち、なんと前の日に訪問したその集合住宅が目の前にあり、若い男性が赤ん坊にミルクをやっているところだった。彼もミルスキー氏に気がつき、自宅に上がるよう声をかけた。
しかし、その家に再び入ったミルスキー氏が目の当たりにしたのはまったく違う光景だった。「テレビが見当たらない、ラジオはたぶんあった。よく覚えていないけど。新品の自転車も消えて、ボロボロの古い自転車1台があった。ベッドの上の寝具用品もかなり古くて、トイレ、キッチンも数世帯の共同使用で、2LDKは1LDKに変わってしまった」。ミルスキー氏の問いに対して、「それは政府の演出であり、外国の友人にみせるため作ったのだ」とこの男性は答えた。
「覚えているのは、自分が千鳥足でホテルに戻ったということだ。心のショックは言葉で形容できるものではなかった」とミルスキー氏は語った。
一方、中国当局の幹部はすでにホテルのロビーで彼を待ち構えていた。
「どこに行きましたか」
「ちょっと散歩してきました」
「勝手に外出したので、反省文を書かなければなりません」
「なんで反省しなければならないのですか」
結局、同氏は両脇をかかえられて、エレベーターで部屋に連れ戻された。「よく反省できるまでここにいなさい 」と言い残して、幹部は外からカギを掛けた。
「当時の自分にとって、目の前の一連の状況を理解するのは困難だった」と同氏は語った。
同行した米国人たちの本件への反応も非常に印象深かったという。
十数人のうち、前述のニューヨーク・タイムズ紙のリチャード・バーンスタイン氏を除いて、大多数は中国当局のやり方に理解を示し、「食事会に招いた友人に一番得意な料理を出すのと同じことだ」と例えられた。挙句の果てに、そのうちの2人は、当の若い中国人男性は台湾の工作員ではないかと疑い始めたという。
当時、頑として訪問を切り上げて帰国しようとしたミルスキー氏は、同行の米国人たちから、反対派に口実を与えないようにと必死に慰留されたという。後に、一行は中国当局の案内人に連れられて、中国の学校や、病院、農村を転々と見学し、知識人との懇談会も設けられた。
40年後のいま、同氏は中国訪問を続行したことを非常に後悔していると語り、あの時代に真相を明かしてくれた中国人男性はとても勇敢な人であると賞賛した。
当時、一緒に中国を訪問した仲間の多くは後に、国際社会で名を知られる中国問題の専門家になった。
一方、ミルスキー氏は1993年から1998年まで、英国紙タイムズの東アジア支局の編集長を務めた。また、天安門事件への現地報道が評価されて、1989年には英国新聞業界から表彰をもらった。