【大紀元日本2月5日】北京五輪の開幕式まであと200日となった1月21日、中国は会場の関連施設の建設費で深刻な支出増をきたし、歴年の記録を更新、「北京五輪で初めての(不名誉な)金メダル」を獲得した。支出オーバーの背後には、公共工事支出の歯止めのなさ、またそれに関する財政の管理・予算制度の時代遅れ、無秩序が反映されている。このような下で、「節約してオリンピックを行おう」というスローガンは空論に終わりそうである。
香港「明報」に掲載された中国国内の専門家によると、北京五輪の会場施設の投資総額は現時点で、280億元人民幣(約38億ドル)に上り、2001年の五輪招致時に推定した投資額16・5億ドルの2・2倍となった。8年前のシドニー五輪の関連建設投資は15億ドル程度で、4年前のアテネ五輪では24億ドルであったという。今、まだ小施設について竣工していないため、北京五輪の会場施設建設の投資総額は38億ドルをはるかに超えることは間違いない。
独裁政権を除き、全世界の国の財政支出は、議会を通じてようやく実行することができるものである。民主国家では議会が国民の「番犬」のような存在で、国民のために政府の財政支出を厳しく監視・管理している。途中で、工事費を追加するならば、必ず厳格な審査基準に基づき、許可を得なければならない。甚だしきに到っては当初、工事費を申請した時点より更に困難である。この場合、国の公共事業で、深刻な支出超過という状況にはならないのが普通であろう。
それと全く反対なのは中国の公共工事。支出がオーバーしないことはめったにない。しかも通常、当初の予算の数倍となる。地方政府の予算編成は地方の人民代表大会会議の審査に交付されるが、しかし地方の人民代表大会はただ中国共産党のゴム印のようなものであり、国の予算への拘束力の低さは周知のとおり名ばかりの存在だと言える。政府の官員が公金を使う時、ほとんどやりたい放題で外在する力の制約がない上に、特に「最高責任者」の指定する施政業績を上げるための公共工事は、どうして支出オーバーにならざるを得ないのだろうか。支出オーバーが深刻化すればするほど、もっとその政治的業績の偉大さを表示されるという意味になる。そこで支出のオーバーそのものがどうしても深刻にならざるを得ないのだろう。
北京五輪はまさに中国共産党の指導部による集団的なメンツ工事、施政業績を上げるためのプロジェクトである。彼らは必ず国力を揚げてその準備を行う。いかなる間違いがあることも許さず、更に中国人のメンツを失うこともできない。そのため、会場施設の建設費の他に、北京五輪を主催する様々な支出は、驚くほどの財政赤字になると予想されている。国内の大きなものと小さなものの施政業績を上げるための公共工事では、このような支出オーバーの事例をすでに何度も目にしていて珍しくもないこととなった。ただし、その規模が北京五輪の場合桁外れなだけだ。
支出オーバーがもっと多ければ多いほどそれ自体は、責任者の官員たちが金銭と資源を強く制御することができることを意味している。その手で握る権利もそれに応じてアップされる。これが1つの大きな誘因となっている。たとえ彼らが私腹を肥やしていないとしても、彼らは何をも顧みなく工事の財政支出を増やすようになる。もう一つの誘因となったのは、工事の支出オーバーによって主事官員が処罰されないということである。もし、公共工事が現地の経済に利益面を与えており、「最高責任者」の評判を向上させることとなれば、彼らが批判を受けるどころか、かえって表彰を受け、官員登用の運に便乗することができる。
広州市の地下鉄会社の前社長・盧光霖氏によると、広州の地下鉄2号線を竣工した時は当初の予算より18億元も節約したが、結局、褒められないだけではなく、予算の編成がわからなかったと批判を招いた。その原因を追究すると、広州市の財政部門は、彼が予算を使い切らなかったことが広州市のGDPと経済発展に影響をもたらしたと、彼に不満をもったという。
北京五輪工事の財政支出は経済の問題にあるのではなく、制度上の政治問題である。現在、公共工事の支出の審査許可の制度を抜本的に改革しない限り、甚だしきに至っては全国人民代表大会この最高の権力機構が本格的に憲法の付与する監督責任を果たせない限り、支出オーバーの問題は一切、その解決を見ないのだ。
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