【大紀元日本11月11日】米国ワシントンが本部の「国際女性メディア財団(IWMF)」は、危険かつ困難を極まる環境の中でニュース報道を行い、勇気および人格の傑出した女性ジャーナリスト3人を表彰した。その中の1人・中国人ジャーナリストの高瑜氏は、2006年の今年で2度目の「勇気賞」受賞となり、17日に「新唐人TV」のインタビューに応えた。
高氏はかつて、北京「経済学週報」副編集長を務め、1989年の天安門事件で冤罪により逮捕、釈放後1993年に再び逮捕され、1999年に外部病院での治療によって解放された。米国コロンビア大学は高氏に客員教授の学位を用意したが、高氏は中国国内での活動を選択した。高氏は、「当局には銃があるが、私にはペンがある」と自分を励ましているという。以下は新唐人テレビ局が高瑜氏を特別取材した内容である。
-あなたは真実を語ったため、中国当局に2度も逮捕されたが、書かれた文章の内容は何だったのか。
「1回目の逮捕は1989年6月3日の午前だった。6月8日に陳希同氏が全国人民代表大会へ提出した報告の中で、私が88年に書いた経済改革に関する文章を強引に「動乱暴動の政治綱領」にした」。
-その文章が、当局によって「六四天安門事件」の政治綱領に抵触したとされたのか。
「その文章は1988年に執筆したもので、前半の殆どは当時中国が直面した経済過熱の問題を厳家斉氏及び温元凱氏の学者2人を取材し、議論を経て、中国の経済困難を乗り越えるのに改革が必要である結論を提出した。私は経済問題に対する改革の精神は、その3年後に_deng_小平氏が南部での談話と基本的に同じ内容であり、唯一の違いは、中国には非常に良い憲法が必要であるとの主張だった。この憲法は人権を体現できるし、中国国内だけではなく、香港・マカオ・台湾にも適応すべきであるとし、政治改革をも求めた。そして、厳家齊氏が提出したもっとも重要なことは、胡耀邦氏打倒のような上層部のまったく無秩序な権力更迭は再現されてはならないということだ。これが原因で、その文章が、政治綱領土を動乱暴動するものと受け取られ、私は対_deng_保趙(_deng_小平に対立し、趙紫陽を擁護する立場)の反逆者とされた」。
-2度目の逮捕の罪は何か?法的手続きをとっていたのか。
「それはまさに濡れ衣の冤罪だ。2度目にはとりあえず、拘留書類を見せてくれたが、自分の氏名と日付以外は何も書かれていなかった。どの法律に抵触したかを一切説明はなかった」。
-ジャーナリストとして、中国に真の報道の自由があれば、多くの汚職腐敗事件も早く暴露され、一掃されているはず。しかし、今の知識分子の大部分は利益集団に付随し、功績を称える道具として使われている中で、あなたのように真実を語る者は非常に少ない。これについて、何かコメントを。
「江沢民は、三つの代表のためのエリート集団を唱えていた。すなわち、資本主義とエリート集団、さらに政治安定を加えた3つの要素を強調した。エリート集団は、知識分子を包括した文化の精鋭を指しており、そして、政治精鋭は中共の高官、権力者を指し、経済精鋭は企業家、裕福層だ。もちろん、高官らは企業家らより裕福である可能性が高いかもしれない」。
-今の中国では健全な法制制約がなく、信仰がなく、道徳も欠乏しているが、この社会の今後はどうなると思うか。
「中国の社会的矛盾はすでに深刻に現れており、環境汚染も深刻化している。また、汚職腐敗はまるで中国の特色になった様だ。この特色は上層部における権力の腐敗に留まらず、社会全体に拝金主義まで蔓延した。今の一部の大学生も良くない社会現象に染まっている。彼らは決して64天安門事件の時代の学生とは同じではなくなっている。」
-中国へ帰国後、自分がどんな状況になるのかを考えているのか?恐怖感はあるのか?
「私は十分に心構えをしている。恐らく…、勿論、2002年以前のように政治監視された状態にならないように希望する。中共当局は、我々のように真実を語る者に対する政治監視、抑圧は、あらゆる隙を突こうと狙う。実は今回、私を海外へ行かせたのも政治目的があると思われる。何故なら、六中全会が、調和した社会を提唱したばかりで、私も海外において何度も表彰されたジャーナリストだし、2度目の勇気賞とのことで、私を海外へ行かせざるを得ないのだ。私は、これまでに経験した2度の逮捕と刑務所での生活もあり、3度目の逮捕になるとしたら、それが政治的迫害であり、法律を踏み躙る表れであると見なす。」
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