【大紀元日本5月25日】1975年末、北京305病院の病床で入院加療中の周恩来・元首相は、極度に衰弱し、全身が痩せ細っていた。末期の膀胱ガン、直腸がん、肺がんに蝕まれ、微かな命の息は、当時激しく進行している「文化大革命」とは対照的だった。
静まり返った病室の中には、身辺警護しかいない。周恩来はため息を発し、瞑目しているところ、脳裏にかわいい少女の姿が浮かび、その軽快な笑い声と微笑んでいる瞳が忘れられなくなった。このかわいい少女は自分の養女の孫維世ちゃんで、亡くなった父親の孫炳文氏は自分の親友だった。彼女のおかげで、家族生活の幸せを深く味わうことができた。しかし、その彼女はここに見舞いに来ることが永遠にできなくなった。文革の造反派は彼女をスパイとして殴り殺した。その死体は裸にされ、体中が傷だらけで、頭部に長い釘が打ち込まれたままだった。
彼女の逮捕状に署名したのは自分だと思い出すたびに、周恩来の心は、窒息しそうに苦しかった。数十年間も同じ屋根の下で生活を共にし、娘のことを知り尽くしている。しかし、「大義名分」の下で、最も「崇高の革命」の目的のために、この咲き始める前の花を無残に踏み潰してしまった。これに対して、周恩来は幾度も良識が捻じ曲がったことを痛感してきたのではないか。
過去のことは映画のように頭に浮かび上がってくる。養女の逮捕状に自ら署名したし、弟の周恩寿の逮捕状にも自分で署名した。60歳を過ぎても毛沢東の足元に跪いて奉仕し続けていた。1962年の「7000人会議」の席で、民主を求める国民の叫び声に、毛沢東自身も引退の意を表したが、自分は毛沢東が主席の座に留まるべきと強く堅持した。周恩来自身の威信により、毛沢東の終身主席の座が固められたが、一方、当時中国人8億人のうち6億人が革命の中で飢餓に耐え続け、数千万人が階級闘争の中で命を失った。歴史は周恩来に多くの機会を与えたが、彼の弱気と利己心のためにすべて無駄になってしまった。
共産党人として、周恩来は魂や来世を信じない。しかし、死神が彼の生命を持ち去ろうとするときに、彼はやっと革命の重荷を下ろすことができた。しかし、そのときの彼は、すでに自分の心、自分の家族、死去の親友、そして自分の同胞に向かう顔がなかった。 彼はこのような精神死亡の苦痛から抜け出すことすらできず、鬱憤を発散することも出来なかった。極度の鬱憤が蓄積した末、ガンという病に見舞われた。止まない激痛に耐えながら、死ぬことの恐れより、早く現実から解脱することを望んでいたのだろうか。
断続的に意識が戻ってきたときに、目の前に妻の_deng_穎超がいた。彼は微かな声を絞り出し、「私はもうすぐ逝くのだ、もうすぐだ。私が逝った後、第一に政治に参与しないこと、第二に中南海(編集者註:中共政権最高指導部の所在地、日本の永田町にあたる)から去ること、第三に北京を離れ、故郷に帰って病気を療養し、静かな生活を送ること」と話した。特に 「絶対に忘れてはならない。遺骨を残さない。墓は要らない。遠く中南海から離れるように」と繰り返し強調した。
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