法王、欧州共産党の崩壊に貢献

2005/04/05
更新: 2005/04/05

「大紀元4月3日」[フリーダムタイムズ 陳宜君翻訳・編集/AP通信ベルリン1日報道]カトリック教教皇であるヨハネ・バウロ2世が神父になった1946年、東ヨーロッパは「鉄のカーテン」によって一つのブロックに押し込められた。ヨハネ・バウロ2世は法王の立場から人々を励まし、その上共産主義の体制に対する鋭い分析によって、ヨーロッパの共産党政権の崩壊を促した。

ヨハネ・バウロ2世は1979年、つまり法王に選出された翌年、カトリック教の最高指導者として母国のポーランドを訪問した。ワルシャワでミサを捧げられた際、彼の発言は母国ポーランドをはじめ東欧諸国の変革にも影響を与えた。

1989年から1990年まで、自主管理労組「連帯」を組織し、ポーランドの共産政権を覆したため、ノーベル平和賞を受賞したワレサはポーランドの訪問を振り返った際、「法王の努力は誰もが知っています。共産主義の崩壊に法王は大いに寄与した」と述べた。また、ポーランド訪問の際の法王の発言を受け、一年後自主管理労組「連帯」は一千万人を動員し、ストライキを展開した。これまで、ワレサとその仲間たちは民衆の動員を試みたが、大きな手ごたえを得られなかった。ワレサは法王が「神からの賜り物である」と称えた。共産主義の崩壊は必然的なことであるが、法王がいらっしゃらなければ、そのスピードはこれほど速いものではなかった。しかも、流血事件も避けられなかっただろう。

東ヨーロッパで共産主義との対抗と、ベルリン壁の崩壊の過程で、教皇は一つのシンボルとして、道徳を唱え、大きな役割を果たした。英国の前首相チャーチルはある逸話を披露したことがある。旧ソ連の独裁者スターリンはヨハネ・バウロ2世の前任者を貶したとき、「法王!彼はどのくらいの部隊を持っているのか」と言ったという。しかし、事実が示したように、ヨハネ・バウロ2世はポーランド共産党が予想していた以上の力を持っていた。ヨハネ・バウロ2世が1964年クラクフの大司教として任命された際、ポーランドの秘密警察は全く気に留めることなく、彼が政治に興味のない理想主義者と詩人であるに過ぎないと思っていた。しかし、彼が法王に選出されたことは今までと異なる意義を持つようになった。「鉄のカーテン」の向こう側にある東ヨーロッパの国、ポーランド出身のヨハネ・バウロ2世が西側社会に最も注目されている宗教指導者に選出されたことは人々を強く震撼させた。当時、西側と隔離状態にあるポーランド人にとって、政治的・道徳的な二重の意義を持っている。