京都の郊外に、静かな一本の小道がある。
道端に、小さな木製の棚がある。
屋根はなく、ガラスもなく、鍵もない。
並んでいるのは、採れたてのナス、トマト、ネギ――
まだ朝の土の匂いが残っている。
その隣には、錆びた鉄の箱が置かれている。
そこには、筆で価格が書かれている。
防犯カメラはない。
店主もいない。
あるのはただ、時折その傍らの一枚の小さな紙を揺らす風だけだ。
私はそこに立ち、長い間それを見つめていた。
硬貨を入れ、野菜を手に取り、その場を去った。
遠くまで歩いてからも、私はまだあの鉄の箱のことを考えていた。
それは、単にお金を回収するための道具ではない。
それは一つの「仮定」なのだ――
通り過ぎる誰もが、善人であるという仮定。
この仮定は、多くの場所でとっくに破綻している。
人々は防犯カメラを取り付け、鍵をかけ、アラームを設置する――
この仮定を、もう信じられなくなったからだ。
だが、京都のこの小道では、
この仮定が、毎朝再び目の前に並べられる。
ナスやトマト、ネギと一緒に。

二千年前、孔子は言った。
「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」
人として信頼がなければ、何ができるというのか。
あの鉄の箱こそが、その答えだ。
これは、日本人が特別に善良だから、というだけの話ではない。 そうではなく、この国には「信頼」を空気のように当たり前のものにする、素晴らしい文化があるのだ。
人々はそれを吸い、その中で生き、ふだんは存在することすら意識しない。 それがどれほど有り難いことなのかは、その空気が失われた世界からやってきて、初めて身に染みて分かる。


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