極秘の潜伏生活を送っていたオサマ・ビン・ラディンは2011年5月2日、パキスタン北部の隠れ家を米海軍特殊部隊に急襲され絶命した。抵抗を試みた者は射殺され、ビン・ラディンの遺体は他のテロリストが聖地化することを避けるためアラビア海で水葬された。
時間が経つにつれ、当時の情報も少しづつ明るみに出てきている。米国の国家安全保障アナリストやCNNプロデューサーを務めたピーター・バーゲン氏が今年7月に上梓した新著『ビン・ラディンの興亡』(The Rise and Fall of Osama bin Laden)では、その生い立ちから死までを克明に描き出した。本書の内容は米国のFOXニュースでも取り上げられ、米国のCIA中央情報局がその居場所を特定した原因も紹介された。
9.11事件とビン・ラディンの隠匿
新著によれば、ビン・ラディンはイスラム教に深く傾倒し、「真のムスリムになるためには、イスラム教で認められている4人の妻とだけ結婚すること。そしてその4人を公平に扱うこと」を信じていた。そしてビン・ラディンはイスラムの教えを忠実に実行した。
2001年、当時44歳だったビンラディンは、3人の妻とともにアフガニスタンに住んでいた。52歳のケリア・サバル(Khairiah Sabar)は最年長の妻で、熱心な児童心理学者だった。ビン・ラディンと結婚するために自身のキャリアを放棄した。44歳のシハム・アル・シャリフ(Siham al-Sharif)は詩人で、コーランの文法に関する博士号を持っている。シハムはビン・ラディンの演説文の編集を手伝い、その宗教に関する宣言に磨きをかけ、世界的なジハード(聖戦)計画を後押しした。
いっぽう、ビン・ラディンの3人目の妻はイエメンの農村から来た「無邪気な」少女アマル・エル・サダ(Amal el-sadah)で、まだ17歳だった。
9・11事件で3千人近くの人々が亡くなったいっぽう、ビン・ラディンとその父親の家族は潜伏した。欧米に対する「聖戦」を始めたビン・ラディンは法の裁きから逃れるため、他のテロリストとともにアフガニスタンの山岳地帯やパキスタン北部に潜伏した。
2004年、米国がアフガニスタンとイラクで国家を再建しようとする試みが困難に直面すると、ビン・ラディンは自身に対する追跡が弱まったと判断し、次の行動に出た。
厳重に守られた「要塞」で暮らす家族
9.11事件から数年後、ビン・ラディンはパキスタンの首都に近いアボッターバード(Abbottabad)に「要塞」を作り、家族と再び共同生活を始めた。
すでに世界で最も有名な指名手配犯となっていたビン・ラディンはボディーガードのイブラヒム・サイード・アフメド・アブド・アルハミド(Ibrahim Saeed Ahmed abd al-Hamid)に土地を購入させ、建築家を雇い、十分な大きさの砦を建てるよう命じた。それはアボッターバードで再会する大家族を収めるのに十分な大きさが必要だった。
イブラヒムはさっそく仕事を始めた。自分の名義で5万ドル相当の不動産を購入し、ビン・ラディンの要求に沿って設計させた。
出来上がったのは高い塀に囲まれ、広い敷地と複数の建物からなる「要塞」だった。本館は3階建てで、1階と2階にはそれぞれ4つの寝室があり、浴室もついていた。最上階にはビン・ラディンが使用する寝室と浴室、書斎、バルコニーがあった。ビン・ラディンの家族は2005年に「要塞」で暮らし始めたという。
本館のそばに建てられた別館には護衛のイブラヒム一家が暮らしていた。塀に囲われた広い敷地には小さな農場もあり、リンゴやブドウ、野菜、蜂蜜などを作っていたという。さらに鶏や牛まで飼われていた。
これらの資産は名義上イブラヒムのものになっていた。彼は兄弟のアブラル(Abrar)やその妻子たちと頻繁に「要塞」を出入りしていた。
イブラヒム兄弟は高いセキュリティ意識を持って行動し、目立たないようにしていた。大都市で電話を掛ける際は公衆電話を使い、「要塞」へ戻るときは追跡されないよう携帯電話のバッテリーを取り出していた。
ビン・ラディンとその一家は、3人目の妻アマルを除いて、ほとんど「要塞」から出ることはなかった。アマルだけが2度も地元の病院に行き、偽名で出産した。
命取りになった洗濯物
2010年、米中央情報局(CIA)は画期的な発見をした。パキスタンの情報提供者が、ビン・ラディンのもとで長年ボディーガードを務めていたイブラヒムと思われる男をペシャワールの街で目撃したというのだ。
2010年8月、CIAが追跡するなか、イブラヒムの白いジープは高い塀のなかへと入っていった。当時、高い塀のなかでビン・ラディンは3人の妻と8人の子供、そして2歳と3歳の赤子を含む4人の孫たちが暮らしていた。この「要塞」には不自然な点があったため、すぐにCIAのアナリストの注意を引いた。
それは電話線がなく、インターネットを契約した痕跡もなかったことだった。これほど大きな家を建てる者が通信手段を一切持たないことはあり得ない。
そして家に窓が極端に少ないことも挙げられた。屋上のオープンテラスも周囲を壁に囲まれ、何かを隠しているようだった。
そこでCIAはこの謎に包まれた「要塞」の住人の生活パターンを研究し始めた。
周囲に住む人々は定期的にゴミ出しをするのだが、「要塞」の住民はすべてのゴミを庭で焼却していた。
庭にある果樹や家畜も分析官の目に留まった。これらの食べ物は、見えない住人たちが食べていたことは明らかだった。
しかし、最後の手がかりとなったのは、屋外で干されていた洗濯物だった。毎日、女性用の服やパキスタン人男性が着るサルワールカミーズ、子供用の服やおむつなどが物干し竿からぶら下がっていた。それは名目上の世帯主だったボディガード一家が着る服の量をはるかに超えていた。
CIAの計算によると、「要塞」には少なくとも1人の成人男性と複数の成人女性、そして約9人の子供が見えない住人として生活していた。この家族構成はターゲットとなる一夫多妻制の亭主のものと瓜二つだった。
こうして9年以上潜伏生活を送っていたビン・ラディンは洗濯物によって居場所を突き止められた。
CIAはこれらの情報を当時のオバマ大統領に提示した。
新著によると、CIAの分析官はビン・ラディンの隠れ家を発見したと証明するために本人の写真を撮影しようとしたが、うまくいかなかった。いっぽう、「彼がそこに住んでいたという考えを覆す証拠を見つけることもできなかった」。
オバマ氏は作戦の実行を命じた。その結果、54歳のテロリスト、ビン・ラディンは射殺され、9.11事件はひと段落した。
FOXニュースは皮肉を込めて次のように締めくくった。
もしビン・ラディンが妻たちに乾燥機を買い与えることを考えていたら、「斬首作戦」を実行するという決定は永遠に下されなかったのかもしれない。
(翻訳・源正悟)
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