≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(28)「中国人の養子に…」

養母の苛めに遭う

 私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。

 沙蘭鎮に入ってから、大通りに沿って東へ歩き、東側の端の大きな長屋に着きました。裏口は塞がれていて開かず、西側の小さい路地を通って南門から入りました。長屋の中に入ると、おばあさんは弟を連れて東棟の南の間にあるオンドルに入り、私は、若い女の人に連れられて東棟の北の間にあるオンドルに入りました。弟とは隣りあわせで、ただ板壁一枚で隔てられているだけでした。南の間と北の間とは互いに見ることはできず、ただ向こうの話声が微かに耳にできる程度でした。私は中国語を話せなかったので、その女性に手まねをして、南の間へ弟を見に行きたいと伝えると、彼女は同意しました。

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実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。
私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。