私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
彼は毎日天秤棒を担いでは、揚げ菓子や焼きパンを売っており、売れ残りが出ると、時には王潔如と私と弟に、均等になるように分けてくれました。私が養母から酷い仕打ちを受けたとき、彼は私をかばってくれたことがありました。
中国の冬は寒く、屋内の水甕の水さえ凍りつくほどで、屋外に撒いた水はあっという間に凍りました。降った雪も溶けませんでした。弟の養母は弟に、小さな柄の綿入れの服とズボン、それに小さな綿入れの靴も作ってくれました。靴の先には虎の頭が刺繍されていて、とてもかわいく見えました。
私の養母は縫いものができなかったので、西棟の南の間の王おばさんが、紫色の長い綿入れの上着を持ってきてくれました。王潔如にはもう小さくなったのだそうです。私は、こんなに長い綿入れの上着を着るのは初めてだったので、全身を鏡に写してみたいと思いましたが、どの家にも大きな鏡はなく、小さな長方形の鏡があるだけで、顔が映るだけでした。
私と弟は、中国服を身につけました。中国語もすぐに話すことができるようになりました。私は当時、母に私たちのこのような格好を見てもらいたいと思いました。しかし、母はどこにいるのでしょうか。どうやって探したらいいのでしょうか。
私は腹を決めて、西棟の南の間に住む王おじさんに頼みに行きました。おじさんは困って、「あんたたちを連れてお母さんを探しに行くことはできないが…機会があれば、団長と連絡を取ってお母さんに会いにきてもらうことにしよう」と言いました。私はうれしくて、王おじさんにお礼を言いました。それ以来、私は早く母に会えるよう、待ち望んでいました。
長屋の人はみな、養母が癇癪もちだというのを知っていましたが、私は初めは全くわかりませんでした。私が養母の家に来て間もないころ、中国語がわからなかったので、薪を持って来るように言われたのに、箒をもって部屋に入って掃除したことがあります。すると、養母は部屋に入って来るなり、私から箒をひったくって、柄のほうで私を打ちすえたのでした。
私は唖然としました
私は唖然としました。今まで人に叩かれたことがなく、両親さえも私を叩いたことがありませんでした。ましてや、箒の柄で叩くなど言うまでもありません。ところが、養母は、思いっきり私を叩いたのです。彼女は年も若く、手にも力があったので、叩かれると痛くてたまりませんでした。
南の間の趙おばさんが、養母を止めに入ってきて、箒を奪い取ろうとしたのですが、年をとっているし、纏足だったので、養母を制止できませんでした。
そのときちょうど、西棟の北の間の党智おじさんが揚げ菓子を売り終わって、天秤棒を担いで帰って来ました。長屋に入って来てこの光景を見ると、彼は何も言わず、養母の手から箒を奪い取り、私を王おばさんの家に連れて行きました。
時間が経つにつれて、私はだんだんと事情が呑み込めてきました。養母という人は、しょっちゅう私を叩いたり罵ったりしただけでなく、近所の人たちをも罵り、汚いことばを浴びせていたのです。ですから、両親も親戚もおらず、誰も護ってくれる人のいない私を叩いたり罵るのは言うまでもありません。私に対しては、本当に毎日のように口汚く罵り、手を出して殴りました。時には訳もわからず、理由もなく殴られました。
私は養母に叩かれるのが怖く、始終びくびくしていました。養母が私を叩いても、泣くことも声を出すことも許されず、声を出せば、さらにひどく叩かれました。来たばかりの時は、中国語が話せなかったし、大人がするような家の仕事ができなかったので、そのためにしょっちゅう叩かれたものです。
養母が私を叩くたびに、長屋中の人が来て護ってくれたので、養母はいっそう腹を立て、しまいには、私を叩くときには、まず玄関に鍵を掛けてから私を叩くようになりました。
養母は、私に「劉淑琴」という名前を付けましたが、一度も私をそう呼んだことはなく、侮辱して「お馬鹿さん」と呼んでいました。彼女が毎日私をこのように呼んだので、近所の大人や子供たちも私をそのように呼ぶようになりました。
私は当時それを聞いても、「お馬鹿さん」の本当の意味が分からず、それがどれほど酷いことばかも分かりませんでした。ただ、弟の「一」だけはずっと、「お姉さん」と呼んでくれました。中国語でそう呼んだのですが。なぜなら、日本語だと大人たちが不機嫌になったからです。
弟の養父母は、親しみを込めて弟のことを「全友」、時に「小友」と呼んでいました。私は殴られ怒られていましたが、弟が殴られず、罵られもせず、以前に比べて太ったのを見て、私の心は慰められました。
私の境遇を母は思ってもみなかったはずですし、弟も、私と憂いを分かち合うすべがありませんでした。姉が殴られているのを見て、弟は私以上に辛いのではなかろうか、私と同じく毎日母がやってくるのを心待ちにしているのではなかろうか、と心配になりました。その後の長い10年間でついぞ弟の本当の心境を知る由もありませんでした。
殴られるたびに、私はすぐにでも母に会いたい、すぐにでもここを離れたいと、毎日のようにそれを望んでいました。
王おじさんは、団長に連絡をとって、母に会いに来てくれるように段取りをつけてくれるはずでしたが、母はどうしてまだ来てくれないのでしょうか。母は、私が養母に殴られているのを知らないはずです。もし、母が知ったら、きっと私を連れて行ってくれるはずです。
私はたとえひもじい思いをしても、母のそばに帰りたいと思いました。当時9歳だった私は、突然の境遇の変化に直面して、それをどうにも受け入れることができませんでした。(つづく)
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