養母の家で迎える初めてのお正月と養父の仁愛
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。私の養父が数日後に山から下りてきて家でお正月を過ごすということです。
もうすぐお正月がくると聞いて、私はまた、半年前、開拓団本部で母が言ったことばを思い出しました。「お正月には東京に戻って、お婆さんやお姉さんと一緒に過ごそうね」。
本当に、まもなくお正月がやってきます。しかし、母と父は今どこにいるのか分からず、生きているのかさえ分かりませんでした。二人の弟もどこへ行ったのだろうか。まだ生きているのだろうか。私はまた禁じえず、彼らのことを思い出しました。
私と弟が中国人の家に来てから、初めてのお正月でした。弟の養母は、彼に綿入れの上着の上に羽織る一重の上着と、小さな帽子を作ってくれました。弟の「一」は、襟の詰まった中国式の上着を着て小さな帽子をかぶると、ちょっと見には日本人の子供には見えず、完く中国人の子供でした。彼は、逃れて来たときよりも太り、ほっぺたは紅く、さらに可愛く賢そうに見えました。私は、自分の愛しい弟がこの家で可愛いがられているのを目にして、ほっとすると同時に、うれしくも思いました。
私の養母はよく一人で遊びに出かけ、家にいることはあまりありませんでした。唯一そのときが、私が最もほっとする自由な時間でした。養母が不在の時、私は王おばさんの家に行って、王潔茹と「ガラハ」遊び(一種のサイコロ遊び)をしたり、中庭で弟と縄跳びをして遊びました。このときだけが、私の幼少期のわずかばかりの楽しみでした。
しかし、養母が帰ってきたら、私はすぐに遊びを止めました。他の子たちも私の養母を恐れていて、養母が戻ったのを見ると、すぐに「あなたのお母さんが帰ってきたよ」と教えてくれました。王おばさんや趙おばさんも同じで、私の養母が出かけるのを見ると、そっと私に、「遊びに出てきてもいいよ」と言ってくれました。
お正月を迎えるに当たって、中国人は一年のほこりをきれいに掃除する習慣があります。また、「かまどの神様」が天に昇るともいいます。どの家もとても賑やかで、大人も子供もみんなお正月が来るのを楽しみに待っています。
養父がまもなく戻ってくるということで、養母は私に部屋の掃除をさせました。部屋は別に大きくはなかったのですが、ずいぶんほこりをかぶっており、特にかまどのあたりはほこりが多くて、一番汚れていました。私はまだ小さくて、手の届かないところがあったので、弟の趙全有に椅子を持ってもらって掃除したりもしました。
私はそれまで、そんなにほこりまみれのところを掃除したことがなく、以前見たこともありませんでした。後になって段々と分かって来たのですが、中国東北部の農村は地理と気候が違うため、日本とは異なる風俗習慣があったのでした。
いまだ会ったことのない「父」がまもなく帰ってくるというので、私の心は不安で落ち着きませんでした。そして、そのときの父が帰ってきた情景は、私の心に深く刻まれました。なぜなら、その情景はあまりにも特殊だったからです。
ある日、御飯を食べていると
ある日、御飯を食べていると、突然外で車の止まる音がしました。養母は、おそらく「養父」が帰ってきたと言いました。養母が迎えに外に出るいとまもなく、すぐに一人の中年男性が入って来て、養父が怪我をしたので運び込むと言うのです。そしてすぐに、別の男性が全身血だらけの男性を背負って入って来ました。
私はそれまで養父を見たことがなく、どんな顔をしているのか知りませんでしたが、今人に背負われて入ってきたのが、私の養父なのです。ただ、養父は今は話ができない状態でした。病院の手術室で麻酔を打ってもらい、まだ目が覚めていないというのです。
養母は突然大声で泣きだしました。すると、その中年男性は、不機嫌そうに母の腕をつかむと外の部屋に連れ出し、大声を出して養父を驚かせないように気をつけて、ぐっすり寝かせて十分休ませるよう言いました。
中年男性が言うには、養父は太ももを怪我しただけで、すでに手術して弾片は取り出してあるので、大事にはいたらないということでした。これから数日は、医者が薬を取替えに来てくれるそうです。養母は大声で泣かないようにと言われ、本当に泣きやみました。
中年男性はさらにこう言いました。彼ら何人かで下山している途中に、野兎を何匹か仕留めたので、火であぶって食べようと考えました。そこで、火をおこし、みんなで火を囲みながら兎をあぶり始めました。養父もその場にいて、棒で火をつついていたのですが、突然焚き火の中で何かが爆発し、養父は太ももを負傷したというのです。随分出血しましたが、大事にはいたりませんでした。他に二人が怪我したそうです。その人が言うには、おそらく、その焚き火の中に日本軍が逃走した際に捨てた砲弾があったのだろうというのです。幸い、三人は随分出血はしたものの、傷はひどくありませんでした。
(つづく)
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