≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(30)「『お馬鹿さん』と呼ばれ…」

ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。靴職人はとても太った人で、私は彼が以前から靴屋をやっていて、それまで妻をもらったことがないというのを知っていました。

 その日、彼らはちょうど夕食を食べているところでした。部屋は暗くて、食卓の上に暗い明かりが一つあるだけでした。その靴職人はオンドルに座り、両側に4人の子供が座っていました。日本人の女性はオンドルの下で忙しくしていました。

 彼女は私を見ると、私が飯塚家の子供であることが分かり、驚いて、「どうしてこんなところにいるの?」と聞きました。私は、この問いに答える余裕はなく、急いで母の消息を聞きました。すると、母は死んだと噂に聞いたというのです。さらに二人の弟のことも聞きましたが、弟のことはもっと知りませんでした。

 私は聞き終えると、大変失望しました。このような結末は、とても受け入れられませんし、受け入れたくもありません。私はしきりに、母は本当に死んだのだろうか、と問い続けました。母がそんなに早く死ぬはずがないし、弟たちが死ぬはずもないと思いました。そんな残酷な結末が本当であるなどとはどうにも考えることができませんでした。

 ただ、私は悲しんでなんかおれないし、ここに来たことを養母に知られるわけにもいきませんでした。もし知られたら、また殴られるからです。私は長居をすることもできず、急いで靴職人の家を離れました。数日後、またその家に日本人のおばさんを訪ねて行きましたが、彼女はすでに自分の子どもを連れて去った後でした。

 それ以降、私は絶えずこっそりと母と弟の行方を尋ねて回りましたが、皆は、「あなたのお母さんは、死んだって聞いたよ」と言うだけで、誰ひとりとして、母が間違いなく死んだと言い切る人はなく、弟の行方のことはもっと知りませんでした。

 時々、私は絶望の念にとらわれ、母が本当に生きているなら、どうにかして私たちに会いに来てくれるはずで、母が来ないのは、母が本当に死んでしまったということではないだろうかと思ったりするようになりました。

 ある一時期、私は母と二人の弟のことを絶えず考えていました。私は今でも二人の弟がまだ生きているのでないかと思っています。私は数年前、厚生省の残留孤児対策室に行って、何人かの人の資料を探して、血液型を調べようとしましたが、厚生省の責任者に、「もっと確かな証拠がなければ、化学的検査はできない」と言われました。

 私はこのように、帰国後も、8歳前後のときの弟の記憶がいまだにあって、母と別れた後もずっと弟に会いたいという思いが内心につのり、平穏ではいられませんでした。

私は中国語ができるようになると

 

私は中国語ができるようになると、周囲の人たちが私のことを「お馬鹿さん」と呼んでいるのが分かり、内心とても悲しくなりました。しかも、この種の悲しみは、養母に殴られるよりもっと耐え難いものでした。養母はよく私を殴りましたが、それには耐えることができました。しかし、皆に「お馬鹿さん」と呼ばれると、ことばに表せないほどの悲しみを感じました。

 私は小さいときから、両親に何か教えてもらうとすぐに覚えました。学校へ上がるようになると、先生はみな、私を賢くて礼儀正しいと褒めてくれ、当時、私を「お馬鹿さん」などという人は誰もいませんでした。

 当時の私の幼い頭では、当初中国語が分らなくて間違ったことをしてしまったために、養母が思いつくままに「お馬鹿さん」と呼んだということなど、思いもよりませんでした。私はこのために昼となく夜となく、ひとり涙を流しました。

 私が沙蘭鎮の劉家に来てから4年あまりで、5回も転居し、勿論どこに行っても私から「お馬鹿さん」という名前が取れることはありませんでした。新しい住まいに着くと、周囲の人は皆私を「お馬鹿さん」と呼びました。このことを気にすればするほど、私の幼ない心はひどく傷つきました。当時の私は、ただただ、生きてもう一度日本へ帰りたいという一心で耐えに耐え抜いていました。

 学校に上がるようになって初めて、周りの先生や同級生たちが私を「劉淑琴」と呼ぶようになり、それ以来私に名前ができたのです。

 もしかしたら、私が養母にそんなにも怒られていたので、周りの人はかえって私を「日本の畜生」とか「日本のガキ」と呼ばなかったのかもしれません。養母の虐待があまりにも酷かったので、周りの大人や子供たちの同情を引いたのでしょう。

 実際、彼らの大多数は心がやさしく、特に子供が苦難を受けているのを目にすると、その子の親たちの過ちを理由に子供たちを責めるのが忍びなく、援助の手を差し伸べ、私に同情してくれました。

 ただ、もし周囲の人たちが私を本当に「日本の畜生」と呼んでも、私は辛くは思わなかったでしょう。私は幼いとはいえ、確かに日本人の子供で、戦争のために中国に入ってきた日本人の子供だったのです。それは動かしがたい事実でした。

 しかし、私はこの目で開拓団の人たちの絶望と苦痛も見てきました。日本の国民と家族もまた同じように大変な代償を支払わされたのです。

(つづく)