そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。当時の私には、中国には身を寄せるところが全くなかったのです。
私は困難の中にあって堪えられなくなったとき、いつも自分に問いかけました。お母さんは本当に死んでしまったのかしら?私は、お母さんはまだ生きているので、この家で、私を日本に連れて帰るために迎えに来てくれるのを待っておかなければならない。だから、私は自分勝手にこの「家」を離れることができないと考えました。私はそんなふうに考え、待ち望んでいたのです。
もしかしたら、母はそのときすでに死んでいたのかもしれません。ただ誰一人として母の消息をはっきりとは知らなかったのです。
1946年の秋、道の北側の独立した棟に既に引っ越して落ち着いていた頃のことでした。私は毎日朝ご飯を食べると、お碗を洗い、おしめを洗いました。養母は食事を済ませると毎日、子供を抱いて外出し、私に留守番をするように言いました。ときには、子守りもさせられました。
ある日、養母は私に子供を背負わせ、一人で外出しました。私は、弟の煥国を背負って、おしめを洗っていました。手にまだウンチが一杯付いていたとき、突然、養母が外から気ぜわしく入って来て、私の背中から煥国を下ろし、私を小さな薄暗い部屋へ連れて行きました。そして、私を米びつの中に押し込めたのです。
私は外で何が起こったのか、どうして私を米びつに入れたのか、わかりませんでしたが、聞くこともできません。ただ言われるままに米櫃の中でうづくまっていました。養母はさらに、「声を出したら駄目。出てきても駄目。言うことを聞かないと殴り殺すからね」と警告しました。養母は米びつに蓋をすると、その上に私の枕と布団のたぐいを載せて重しにしました。
私はかすかに人の話し声が耳に入りました
私はかすかに人の話し声が耳に入りました。よく聞いてみると、それはどうも団長の声でした。しかし、今日の団長は中国語を話していたため、うっかりすると気が付かないところでした。私は突然、養母がなぜ私を隠したのか合点がいきました。団長が私を探し出すんじゃないかと心配していたのです。
私はその時、外にいる人が団長であると確信しました。今でも、団長がその時玄関で何と言っていたのか覚えています。「あなたの家には日本人の子供がいますね?その子は今どこですか?その子に会いに来たのですが。…その子を連れて帰りたいのですが…」。
私はそれを聞くと、すぐにでも団長と一緒に行きたいと思いました。そこで、力一杯蓋を押し開けようとしましたが、どうにも開きませんでした。思いっきり叩くと、ほんの少しだけ蓋が開くのですが、力を緩めるとすぐに閉まってしまいます。
私は何とかして、蓋を押しあげて出て行きたいと思いました。団長に会えさえすれば、連れて行ってもらえるのです。私は大声を出すのを忘れていました。初めから大声を出せばよかったのかもしれません。押してもどうにも動かず、出ることもできないとわかってやっと、大声で叫びました。
しかし、養母は私の声を聞きつけると、端から団長を部屋に入れようとはせず、団長を帰らせようとしました。彼女は、自分には子供がいるのに、日本人の子供をもらうはずがない、と嘘をついて、団長の間違いだと言い張りました。
団長は、私が米びつの中で「団長」と叫んだのが聞こえなかったようです。この肝心な数分間、いや数秒間で、二年あまりずっと待ち望んでいた東京へ帰るという望みが叶えられたはずです。しかし、この大事な一瞬に、チャンスを逸してしまい、団長と一緒に日本に帰るチャンスは失われました。
もし、あの当時団長と一緒に日本に帰っていたら、中国に40年間も留まることもなかったし、艱難辛苦に満ちた人生を送ることもなかったでしょう。もしそうなら、私の人生は全く違うものになっていたはずです。
(つづく)
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