ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。おかげで私は、顔も体もモルヒネの混じった汚い水だらけになりました。彼は私をからかいながら、「おい、お馬鹿さん、お前もちょっと麻薬漬けにしてやろうか」と言いました。
私はそのとき、とても大きな侮辱を受けたように、悲しみと憤慨を覚えました。人から「日本の犬っころ」と言われるよりもっと哀しくなりました。しかし、養母は私の味方をしてくれるどころか、その災難を見て喜びながら下品なことを言っています。
それ以来、私は次第に、養母は全く母親らしくなく、私のことをただ単に、気ままに使える「子供の召使」としか考えていないということがわかりました。
ほどなくして、養母に男の子が生まれました。名前を「劉煥国」といいました。養母が子供を産んでから、養父が一度だけ帰って来て、十日あまり滞在しました。養父は家で養母のために産後の食事を作っていました。まず粟をしばらく水につけて置き、それからおかゆ状に煮ます。そこに卵をいくつか落として、とろ火でじっくりと煮込みます。卵が砕けてしまわないよう、火は決して強くしません。
養父は何でも辛抱強く教えてくれ、私に対してとても優しかったのです。そのため、私は少しも慌てることなく、全てしっかりと覚えることができました。
私はさらに、毎日小川のほとりに行って服やおしめを洗わなければなりませんでした。これは、私がやらなければならない仕事でした。しかし、養父が行ってしまうと、他のことも含めて全て、子供の私の肩にかかってきました。
私は小柄だったので、棚の上の容器に手が届かず、かまどの上に乗らなければなりませんでした。あるときボールをきちんと置かず、下に落としてしまい、大きな音がしたことがあります。養母は赤ん坊がびっくりしたと言って、私を火起こし棒でひどく叩き、膝の辺りが赤くはれ上がりました。私は自分の薄暗い部屋に戻り、膝を摩りながら涙を流しました。
ここへ引っ越してからは、誰も助けてくれる人はおらず、私は本当に養母が私を殴り殺すのではないかと心底恐れました。
あるとき、養母は私にナスの炒め物を作るように言いました
あるとき、養母は私にナスの炒め物を作るように言いました。私はどうやって作ったらいいかわからなかったので、養母にいちいち聞きました。どんなふうに切るのか、どれぐらいの大きさか、鍋にどのくらい油を入れるのか、どのように作るのか。私は全て養母の言う通りにやりました。
ところが、ちょうどナスを鍋の中に入れて、鍋返しをしようとしたところで、養母が出てきて、「作り方も知らないのか、ナスを無駄にしてしまって!」と怒鳴り、突然、ナスを炒めていた鍋をひったくって、私の頭めがけて殴りました。鍋の中のナスがすべて私の頭に降りかかりましたが、鍋の中の油がナスに随分吸い取られていたのは不幸中の幸いでした。さもなくば、私は煮えたぎった油で大やけどしていたところです。
私はそのとき、頭が「ゴ~ン」として、意識を失いそうになりましたが、熱いのも痛いのもわからなくなりました。ただ頭から何かぬるぬるしたものが流れ落ちてくるのを感じました。触ってみると、油と血でした。私は油と血でべったりとした手で、頭の右側の傷口をしっかりと押さえました。しかし血が流れ続けるため、私は外に出て水で洗いましたが、血は止まりません。洗面器の水が真っ赤に染まりました。私はどうしていいか分かりませんでした。
養母は、私の頭部から血がしきりに流れているのを見ると、「赤チン」を取り出して私の頭に塗り、汚いボロ切れを持ってきて、傷口を押さえておくように言いました。流れ出た血がそのボロ切れに吸われ、しばらくしてやっと血が止まりました。
しかし、後になって今回の事がとても怖くなりました。もし、まだナスを入れていない鍋を頭にぶちまけられていたら、頭に大怪我をしただけでなく、顔を油で大やけどしていたに違いありません。もしそうなら、今でも顔にひどいやけど痕が残っていたはずです。考えれば考えるほど怖くなりました。
ただ、考えてみれば、本当に奇跡でした。当時、頭にあんな大きな傷口ができ、血が止まらなかったのに、病院に行って傷口を縫うことも治療を受けることもできず、しかも、養母が持ってきた汚いボロ切れで押えて血を止めただけなのに、感染することもなく、数日したら、傷口がふさがったのです。今でも、頭の右側にはそのときの傷痕が残っていますが。
養母は、自分の思い通りにならないことがちょっとでもあると、私のせいにしました。赤ん坊が乳をよく飲まず泣くと、養母を怒らせたから乳が出なくなったのだと言って、私を咎めました。ただ、私が養母を怒らせるはずがありません。養母を怒らせたらひどく折檻されるのが分かっていたので、常に気をつけ、何でも養母の言うとおりにしました。それが習慣になっていました。
しかし、養母はそれでも私が悪いのだと言いました。赤ん坊が少しでも具合が悪くなると、私が脅かしたからだと咎めるし、私が外から「邪気」を持ってきて、子供が邪気に触れたのだというのです。だから、そんなとき、「お祓い」の先生を呼んで来ます。私は、当時まだ幼くて、中国の農村のそうした習慣がどうにもよくわからず、困りました。
私は仕事がないときは、いつも自分の部屋に閉じこもっていました。私が寝る部屋は小さく暗くて、日中でもドアを開けておかなければなりませんでした。そうしないと、暗くて何も見えませんでした。
私はときどき、とても孤独を感じました。遊び友達もいなければ、遊ぶ自由も権利もありません。養母もまた、私に精神的にリラックスしたり息をついたりするチャンスを与えてくれませんでした。その結果、私は仕事をする以外は、薄暗い小さな部屋の中でただボーッとしているだけでした。しかし、決して寝入ってしまうこともできませんでした。
ある時、養母が弟の煥国を背負って外出したとき、私は部屋でボーッとしているうちに寝入ってしまいました。すると、いつの間に入ってきたのか、養母は私が本当に寝入っているのを見ると、土くれを私の口一杯に突っ込みました。これで、私は目が覚めました。口中土だらけで、吐き出そうにも吐き出せず、相当に辛い思いをしました。それ以来、私はどんなに疲れていても、どんなに眠たくなっても、決して寝入ったりはしませんでした。
(つづく)
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