養母の苛めに遭う
私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。
沙蘭鎮に入ってから、大通りに沿って東へ歩き、東側の端の大きな長屋に着きました。裏口は塞がれていて開かず、西側の小さい路地を通って南門から入りました。長屋の中に入ると、おばあさんは弟を連れて東棟の南の間にあるオンドルに入り、私は、若い女の人に連れられて東棟の北の間にあるオンドルに入りました。弟とは隣りあわせで、ただ板壁一枚で隔てられているだけでした。南の間と北の間とは互いに見ることはできず、ただ向こうの話声が微かに耳にできる程度でした。私は中国語を話せなかったので、その女性に手まねをして、南の間へ弟を見に行きたいと伝えると、彼女は同意しました。
弟の家は「趙」と言い、老夫婦二人だけで暮らしていました。おじいさんは、長い綿入れの上着を着た細身の背の高い優しそうな人で、おばあさんより随分年をとっていました。その日の晩、その優しそうな老人は、弟に揚げ菓子のスープを作って、身体を温めてくれました。弟は、何日も温かいスープなど飲んでいなかったので、おいしそうにたくさん食べました。
私のほうは、家に他に誰もおらず、女の人と二人だけの晩ご飯は、粟とお米のご飯に白菜スープだけでした。
この大きな長屋には、四世帯が住んでいました。西棟にも南の間と北の間があり、南の間には、「王」という三人家族が住んでいました。その家には、私より少し年上の娘がおり、彼女のお父さんは、日本語を話すことができました。
私たちが中国人家庭にやってきてから三日目、西棟の南の間に住む王おじさんが戻って来ました。おじさんが戻って来ると、皆は大通訳家が戻ってきたと言って、とても喜びました。おじさんは「王新民」といい、親しみやすく情の深い人で、行商で生計を立てていました。
おじさんが日本語ができるというので、弟のところのおばあさんが弟を連れておじさんの家に行き、通訳を頼みました。私のところの女性も、私を連れて女の子の家に行きました。
王おじさんは、私たち二人に名前を聞きました。私は、「私は飯塚正子で、弟は飯塚一と言います」と答えました。彼はまた、私たちが何歳か、両親の名前は何か、実家はどこにあるか等々を聞きました。
王おじさんは私と弟に、彼女らは私たち二人を引き取って養子にしたので、これからは、彼女らの家の人たちを「お父さん」「お母さん」と呼ばなければいけない、と言いました。さらに、弟に、弟の「父」は「趙源」という名前だということを教え、「お父さん」「お母さん」を中国語でどういうかも教えてくれました。
おばあさんには名前はなく、皆は彼女のことを「趙さんの奥さん」と呼んでいました。弟の「父」は、弟に「趙全有」という中国名を付けました。
王おじさんは私にいろいろと教えてくれました。私の養父は「劉東海」と言い、山林警察官で、皆は「劉お役人」と呼んでいる。普段はあまり家に帰らない。私の養母は「劉桂珍」という。
おじさんは小声で日本語で、養母を「お母さん」と呼んでごらんというので、私はぎこちなく小声で「お母さん」と呼びました。
「母」は私に、「劉淑琴」という名前を付けました。
王おじさんはまた、自分の家の女の子を私に紹介してくれました
王おじさんはまた、自分の家の女の子を私に紹介してくれました。彼女は「王潔如」といい、私より三歳年上でした。この長屋の四家族で、子供は彼女だけだったので、私たち二人が来て、王潔如はとても喜びました。彼女は、この長屋で最初に私を日本語で「正子(マサコ)」と呼んでくれた人でした。半世紀経った1995年、私がハルビンで彼女と会った時、彼女は第一声「あなた、マサコね!」と言いました。私は彼女がまだ私の日本名を覚えていてくれたことに驚き、感謝しました。
私は40年中国にいて、多くの人が私の「正子」という日本名を知っていましたが、ついぞ彼女以外誰もそう呼んではくれませんでした。子供のころ、養母は私を差別して、「小さい馬鹿」というあだなを付けました。それ以来、近所の人はみな、私の本当の名前を知ることはなく、皆同じように私のことを「小さい馬鹿」と呼びました。しかし不思議なことに、王潔如だけは、私を「マサコ」と呼んでくれました。
私が中国に40年いて、唯一彼女だけが私を日本名で呼び、そしていまだにその名前を覚えていてくれた中国人であり、私が孤児になったあの日に出会った、同じような年の仲良くしてくれた人でした。
(つづく)
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