中国歴代の皇帝は、その個人に初めから権威があったわけではない。つまり、権威の象徴は個人ではなく、あくまでも天から授かったとされる皇宮の玉座にある。その前提の上で、覇権争いの末、その玉座についた人物に対して、後天的に絶大な権威が与えられるのである。
だからこそ皇帝たる人物は、自身がその地位にふさわしい権威を付与されるよう、努力しなければならない使命をもつ。そのような皇帝の使命という視点から、文人皇帝として名高い北宋・徽宗について考えてみる。
尊敬される皇帝の条件
具体的には、古代の聖賢がのこした万巻の書を読んで勉学に励み、儒教道徳に基づく理想的な文治政治を実践し、太平の世を実現して、天下万民の尊敬を集める賢帝になることである。賢帝とは、皇帝自らが中国伝統文化の保護者であり、また実践者であることを指す。
それをなし遂げた代表的な皇帝が、唐の太宗(李世民)であろう。
李世民は、唐王朝の創業者である父・李淵(高祖)をよく支え、隋末唐初の群雄割拠のころには、武将として有能な働きをみせた。唐の第2代皇帝に即位して太宗となった李世民は、側近の魏徴(ぎちょう)に「皇帝である自分に誤りがあれば遠慮なく諫言するように」と命じた。魏徴もそれに応じて、皇帝に間違いがあれば、憚ることなく厳しく諌めた。
これにより善政を行った唐は大いに栄え、その元号をとって「貞観の治」と呼ばれる最盛期を迎えたことは周知の通りである。
唐の創業から約300年下った10世紀。907年に唐が滅ぶと、約50年にわたって五代十国時代という戦乱の時代が続いた。これを平定して、960年に宋(北宋)を建てたのが宋の太祖・趙匡胤(ちょうきょういん)である。
宋の太祖もまた、創業者として非凡の才能を発揮した。唐を滅ぼした原因の一つに、節度使の地方軍閥化がある。太祖はこれを教訓として、節度使の権力を抑える一方、科挙合格者の官僚任命権を皇帝のもとに集めて、文治政治の中央集権化を進めたのである。
趣味人皇帝の悲劇
こうして賢帝から始まった宋王朝だったが、北宋末期にでた第8代皇帝・徽宗(きそう)は、25年間も在位しながら、およそ皇帝の器ではない不向きな人物であった。
ところが、政治面では全く無能だったこの徽宗には、芸術分野における宋代第一の文人という、もう一つの評価がある。
確かに徽宗の作品は、世界的にも第一級の美術品と言われている。書の分野では痩金体という独特の書体を創出し、絵画では写実的で精密な院体画を確立した徽宗は、後世の人々から「風流天子」と称された。
その称号は、称賛と揶揄のいずれにもとれるが、中国伝統文化という基準で採点するならば、徽宗は明らかに皇帝として不合格であろう。
唐の玄宗が歌舞音曲を愛したように、皇帝が芸術を好む文人であること自体が悪いのではない。ただ、徽宗が没頭した芸術は、結局は自分の趣味であり、現実からの逃避的な愛好だった。つまり徽宗の趣味は、もとより天下万民ために役立てるべき中国伝統文化ではなかったのである。
徽宗は、自らの贅沢のため民衆に重税を課すなど、悪政を繰り返した。また、北方の異民族が虎視眈々と中原の地を狙っているときに、自己の趣味のために南方から造園用の巨石や巨木を運ばせるなど、莫大な国力を浪費したことも災いした。
1127年、金軍の前に開封は陥落し、北宋は滅ぶ。以後は、南方の臨安(杭州)に都を移し、南宋(1127~1279)として存続する。
中国伝統文化の真髄
中国伝統文化とは、皇帝から庶民に至るまで、また漢民族のみならず周辺の異民族まで正しく感化するような、大きく懐深い教育力をもつものである。ただし、それには先述したような必要条件がつく。皇帝自らが、中国伝統文化の保護者であり、また実践者であることだ。
皇帝が、その使命に則して誠心誠意つとめるならば、唐の太宗や清の康熙帝のように、中国史上の名君として末代まで尊敬される。
しかし、これに反すれば、暗愚の帝として、あるいは無教養の恐るべき暴君として、歴史は厳しい評価を下すであろう。その結論は、徽宗の例を見るまでもない。皇帝がいなくなった近代以後の中国においても、この原則は変わっていないのである。
(2013年3月25日)
(穆梅香)
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