著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(27)「母との永遠の別れ」

実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。私たちは、王家屯にやってきてからは、この空き家に住んでおり、昼間は大家さんのところへ仕事に行き、夜になって帰ってきて寝るという生活をしていたので、開拓団のよその家との付き合いはほとんどありませんでした。ですから、母が夜中に子供を生んだときも、私は大家さんのお婆さんに頼みに行ったのです。

 末の弟が亡くなったときに初めて、大西おじさんにお願いして埋葬してもらったくらいで、よその家族がどこに住んでいるのか、彼らの子供たちがどこにいるのか、私には全くわからず、ましてや、何人かの子供がすでに中国人に引き取られたことなど、更に知るよしもありませんでした。

 数十年前の当時の歴史を思い出したとき、人々は「中国残留孤児」という言葉でかたづけていますが、これが死に直面してなすすべのない母子がかすかな生命でつくりだした歴史であったということなど、誰が想像できたでしょうか。

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第四章 独り暴風雨の洗礼に直面する 母、弟たちとの永遠の別れ 私が孤児になる運命がすぐそこまで近づいていようとは思いもよりませんでした。運命の手が今すぐにも、慈愛に満ちた、いつも私の命を守ってくれた母と、これまで互いに助け合ってきた二人の可愛い聞き分けのいい弟を、私のそばから永遠に連れ去ろうとしていました。
養母の苛めに遭う 私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。
私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。