中国では寛容と我慢が、一種の伝統的な美徳として称賛されてきました。孔子は「薄責于人、則遠怨矣」と語りました。曰く、他人を責めないで、理解と寛容の気持ちで接することができれば、自分も悩むことなく、穏やかな心情を保つことができるという意味です。
古代には、「一時の我慢をすれば、そのうちに撃風と怒涛が静まる。一歩を譲歩すれば、広大な海と空が見えてくる」という名句があります。寛容と我慢は、媚びへつらうことや、屈辱と品格を損なうことではなく、深い知恵と度量がある人しかやり遂げられません。寛容と我慢は慈悲であり、人の教養と品格を表し、災いを溶かし、気持ちが楽になり心配事もなくなるのです。
中国の宋の時代に、呂蒙正(りょもうせい)は2人の皇帝の下で、3回も宰相を歴任しました。彼の度量は海のように広大であると称えられ、厚い人望の持ち主でした。
呂蒙正が宰相に就任する前のある日、皇帝の朝礼で、1人の朝士(ランクの低い役職)が彼を指さして、「こいつはなんで朝礼に参政するのか」とけなしました。呂蒙正は見て見ぬふりをしました。周りの官僚らは、あの者の名前を調べるようすすめましたが、「名前を知ったら、多分忘れられなくなるから、あえて知らないほうがよい」と呂蒙正は答えました。
ある日、呂蒙正は息子らが家でひそひそ話をするのを見かけました。話を聞くと、息子らは不満を漏らします。
「父上の評判は非常によいのですが、ある人は、父上が官僚としては無能であり、職権が同僚らに占用されていると言っています。私たちは、ちょっと納得できません。父上は才能があるからこそ、皇帝陛下から宰相に抜擢されたのに、どうして、父上はいつも人に3分を譲るのでしょうか」。
呂蒙正は「私は確かに才能がないが、皇帝陛下が私を宰相に選任したのは、人使いが上手だからなのだよ。もし私が人材を適所に重用しなければ、それこそ職務の過失になる」と笑って答えました。
呂蒙正が宰相に就任して間もなく、蔡州の代官・張紳の汚職が検挙され、呂蒙正は彼を免職しました。しかし、ある官僚が皇帝に、「張紳氏は金持ちで、お金に目が眩むはずがありません。昔、呂蒙正が貧困で金に困ったときに、張紳氏に助けを求めたが、断わられました、そして今回、呂蒙正氏は職権を濫用し、私憤を晴らしました」と告げ口をしたのです。それを信じた皇帝は張紳を復職させましたが、そのことについて呂蒙正は一言も弁明しませんでした。
その後、別の官僚が張紳の汚職の証拠を掴み、張紳は再度免職されました。皇帝は呂蒙正が無実であることが分かり、彼に「張紳は、真に賄賂を受け取った」と言い、それを聞いた呂蒙正は「わかりました」と答え、なにも言いませんでした。
呂蒙正と学友の温仲舒は、同じ出世道を歩んでいましたが、温仲舒は在職中に汚職により、官位を剥奪されました。呂蒙正が宰相に就任した後、彼の才能を重用するよう、皇帝に温仲舒を推薦しました。役職に復帰した温仲舒は、自分を誇示するあまり、度々皇帝の前で呂蒙正をけなし、さらには、呂蒙正が皇帝に怒られたときに、火に油を注ぐようなことをします。当時の同僚たちは、非常に温仲舒を軽蔑していました。
ある日、呂蒙正が温仲舒の才能を称賛していると、皇帝は、「あなたはいつも彼を褒めるが、彼はいつもあなたを勘定合って銭足らずのように批評している」と言います。呂蒙正は微笑んで、「陛下が、この私を宰相の地位に置かれる理由は、私が人の才能を判別でき、人材の重用ができるからでございます。人が私のことをどう言おうと、関係ございません」と答えました。それを聞いた皇帝は大笑いし、益々呂蒙正を重用するようになりました。
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